ごめんね、だから…





 あーちゃんがいなくなって、お日様が寂しそうに三回沈んで、昇った。
 お花は悼むように静かに揺れ、風は嘆くように時折強く吹く。
 世界があーちゃんを失って、悲しんでいるみたいだって、思った。



 はぼんやりと、今日も色のない庭を見ていた。
 あの時約束した白い花は零れんばかりに咲き誇っている。
 ここ三日間、ご飯は喉を通らず、寝ることも身体が拒絶し、乳母にも女房にも心配をかけている。
 一昨日は父と母が、昨日は下の兄が様子を見に来てくれた。
 いけないことをしているんだって分かっている。
 みんなを困らせるのは良くないことなんだと。
 悲しいのは自分だけではないのだからと。
 それでも、どうしようもなかった。
 どうもできなかった。
 敦盛がいないという事実が、に生を拒絶させていた。

「姫様」
 誰かが自分を呼んでいる。
「姫様?」
 遠くからだろうか? いや、すぐ近くからかもしれない。
「姫様!」
 心なしか焦っているようだ。
 どうしようか?
「姫っ、姫様!」
 ああ、返事をすればいいんだ。
「なぁに?」
 声のした方に目をやると、明らかにほっとした様子の乳母がいた。
「なんだ、乳母だったの」
 何かを期待したつもりではなかったのに、なぜかがっかりしたような言葉が出た。
 ……敦盛ならと、思うたびに裏切られて傷つく。その繰り返しだ。
「姫様、通盛様がいらしておりますわ」
「お兄さまが? 何かしら」
 上の兄の名に小首をかしげると、乳母は優しく微笑んで、
「姫様を心配していらっしゃるのですよ」
 と言った。
「……そう」
「お通しいたしますね」
「うん、お願い」
 が頷くと乳母はいなくなった。
 きっと通盛を呼びに行ったのだろう。

 みんなに心配かけている。
 心配させるのは、いけないこと。
 分かってる。分かってるけど。
 でも、駄目なのだ。
 代わりなんてないから。
 敦盛の代わりになるものなんて、何もないから。

 彼のいない世界は静かで、寂しい。
 孤独の闇の中に溶けてしまいそうだ。

「ご機嫌いかがかな、私の妹君は」
 龍笛のような穏やかな声が降ってくる。
 知らずうつむいていた顔を上げると、兄の柔らかな笑みに出会う。
 几帳の裏にはきちんと乳母もひかえていた。
 気づかぬうちに呼んで戻ってきていたらしい。
「お兄さま」
 は少しだけ表情を和らげる。
 父のように温厚な上の兄といると、不思議と気が落ち着いた。
 下の兄といるときはいつも元気になるのと同じように。

「思ったより元気そうで安心したよ。
 けど、少し痩せたかな?
 ご飯を食べていないんだろう」
 咎めるでもなく叱るでもなく、あくまで穏やかに通盛は語る。
 それが余計にには痛かった。
「ごめんなさい」
 悪いことをしている自覚はあったから、素直に謝る。
「謝ることではないよ。
 ……そうだな」
 通盛は一度言葉を切り、含みを持たせる。
 続きが気になっては少し前のめりになった。

が良い子にしていれば、敦盛君も戻ってきてくれるかもしれないよ」

「――ほんとぉ!?」
 驚いて、思わず大きな声が出る。
「ほんとに本当?
 いい子にしてたら、あーちゃん帰ってくる?」
 がばっと兄に詰め寄る。
 寝耳に水だった。
 驚きは驚きでも、嬉しい驚きだ。
 本当なら、本当なら……。
「帰って、くる?
 あーちゃんと、また、遊べる?
 一緒にお花、見られる?
 碁、打てる?
 笛も……聞ける?」

 約束、守れる?

 次々と言葉を並べるに通盛は苦笑して、
「ああ、子細は分からないが経正から死反の術を行うとの文が届いたよ」
「まかるかえし?」
 意味の分からない単語に小首をこてんとかしげる。
「魂を呼び戻すんだ。
 うまく行けば、また遊べるよ」
 そう言って、兄はそっと頭をなでてくれた。
 大きくて優しい手のひら。
 それを『温かい』と感じることができる。
「……良かっ、たぁ。
 あーちゃんもう帰ってこないかと思ったぁ。
 ほんとに、良か、った……」
 光が、色が、音が、ぬくもりが、感じられる。
 敦盛が帰ってくることの、何よりの証しに思えた。

 ぽろぽろと、温かいものが頬を伝い零れてくる。
 とどまることなく、次々と。
 通盛が、秋風の薫き物の香りがする袖で拭ってくれる。
 それは朝露ではなく、涙だった。



 ごめん、ごめんね、あーちゃん。
 は喜んだの。
 あーちゃんは帰ってきてくれるんだ、って。
 あの時『約束』したから、今まで『約束』守ってくれなかったことはなかったから。
 だから大丈夫、って。
 また一緒に遊べるんだ、って。
 そう、信じてたの。

 ごめん、ほんとにごめん。
 が縛ってたんだ。
 分かりにくいけど、そんなつもりはなかったけれど。
 呪いのように、確実に。
 願ってはいけないことを願ってしまった。

 あーちゃん、ごめんなさい!


 ******


 あーちゃんは帰ってきてくれた。
 人ではなく……怨霊として。
 それでもいいって、は思ったの。
 またあーちゃんに会えたから、それだけでいいって。
 何も知らないはあーちゃんの気持ちも考えずに、そう思ったの。



 儀式のためにしつらえられた室に良く通る伯父の声。
 何と言っているのか分からない、怪しい呪文のようでいて繊細な歌のようでもあるそれ。
 不思議な心地になりながらもはただ一点のみを凝視している。
 蒼白く冷たい――敦盛の亡骸。
 艶やかな髪はまとめられて漆器に収められていた。
 生気のない白磁の肌に熱が灯る時を、今か今かと待ちわびる。

 ふ、と。
 清盛の声が途切れる。
「あ……っ」
 何か得体の知れないものを感じて思わず声がもれた。
 敦盛の身体を飲み込むように黒いもやが渦巻いている。
 その中で、今まで微動打にしなかった敦盛の手が、かすかに動いた。
「あーちゃん!」
 たまらずは駆け寄る。
 儀式の最中ということも忘れて、敦盛を囲むように立てられている台を押し退けて。
 周りの驚く声も、父の静止の声も、遠くに聞こえた。

「おかえりなさいっ!」

 は力一杯、いまだ冷たい体に抱きついた。
 白い顔を覗き込む。まつ毛が、震える。すっ、と開いた。瞳が、紅い。
「……?」
 名を、呼んでくれた。
 それだけで幸せで胸が詰まりそうになった。
「うん、うんっ!
 だよ、あーちゃん!」
 何度も何度も頷いた。
 昨日あれだけ流したはずの涙がまた込み上げてくる。
 もう全てどうでも良かった。
 敦盛の瞳が紅く染まっていることも。
 身体が冷たいままだということも。
 親族内で何やら口論していることも。

「人にあらずともなお愛しむ、か。
 泣かせるのぉ」

 そう、伯父が笑っていたことも。



 ありがとう、あーちゃん。帰ってきてくれて。
 そして、ごめんね。気づいてあげられなくて。
 本当はもう、お休みしたかったんだよね。
 もう、帰ってきたくなんてなかったんだよね。
 気づけなくて、ごめんね。

 だけが、なんにも知らずに喜んでたんだ。
 あーちゃんも、経正さんも、経盛伯父さまも、みんなつらかったのに。
 は、はただ……。
 ごめん。ごめんね。
 人の不幸を喜ぶなんて、悪いことなのに。
 それでも、それでもやっぱり、帰ってきてくれて嬉しいって思っちゃうは、悪い子。

 ごめんね。

 だから、つぐないをするの。
 悪いことをしたから、『罪をつぐなう』の。
 あーちゃんの苦しい苦しいっていうのを、少なくするよ。
 ちょっとだけかもしれないけれど、和らげられるようにがんばる。
 だから……だからねあーちゃん。
 約束、覚えてるか分かんないけれど。
 できたらでいいから、叶えたいな。
 ……会いたいよ、あーちゃん。
 一緒にいさせてよ。どうして会っちゃダメなの?

 ねえ、あーちゃん。
 寂しいよ。悲しいよ。
 、がんばるから。いっぱいがんばるから。
 あーちゃんの気が安らぐように、お祈りしてるから。

 ……元気になったら、また一緒にお花、見ようね。
 約束、だよ。あーちゃん。








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 えらく中途半端なとこで終わってますが、これでひとまずおしまい。
 続きも一応考えてます。文章になるのはいつになるか分からないけど(汗)
 伏線もあったりするんですが、ちゃんと活かせるかなぁ。
(2009/4/27)