大きな木の下で紡がれる大切な思い出
熊野の夏は涼しい。
熱は潮風に追いやられ、空気は留まることを知らない。
それでも暑ければ海へ川へと行く。
ここ本宮のすぐ横を流れる熊野川も、格好の涼み場だった。
仕事を終えたは、ふらりと外を歩いていた。
この暑さにやられて動きが鈍る者たちの中、少女はいたって元気だった。
夏は嫌いではない。
熊野は常に気が流動しているから。
陰陽はかたよることなく正常で、季節は順当にめぐる。
あるがままの自然に囲まれた霊山は神聖な空気を宿している。
夏だからといって、へばっていてはいけないと言われているようだ。
と、烏(カラス)として最低限の神道と陰陽道を身につけているは思う。
照りつける太陽のおかげで秋の実りがあるのだから、何も厭うことなどない。
冬が苦手な少女は、夏に対しては寛容だった。
それに、別当だって。
彼も暑さに文句をこぼすことなく、涼しい顔で日々を過ごしている。
自分が弱音をはくことなどできなかった。
風が頬をなで、髪をもてあそんでいく。
涼を求めて木陰へと引き寄せられる。
大きな木の下へと。
「あ、べっとーさま」
先客がいた。
木の幹にもたれかかって、足を投げ出している赤毛の少年。
彼こそが熊野別当、藤原湛増。
町に下りてきた帰りだろうか、身軽な装いをしていた。
「よ。お前も涼みにきたか」
軽く手を上げて、応えてくれる。
部下に対しての気軽な言動はいつもと変わらない。
「はい!」
明るく返事をして隣に座る。
肩が触れ合わない程度の、かすかな距離。
手をつなごうとして伸ばした手をはあわてて引く。
もう、子どもではないのだから。
「やっぱりここは気持ちいいですね♪」
気持ちを切り替えるように明るく言った。
川が近いせいもあって、風通しがいい。
本宮が小高い場所にあるため、町よりも涼しいのだ。
足元に目をやると、風に揺れる草花。
三方向に分かれた葉がゆるりとそよぐ。
青々としげった草は、木もれ日をあびて輝いていた。
あの日は可愛らしい花が咲いていたな、と過去の記憶と重ねる。
「こうしていると、思い出しますね」
風に揺れる草を見ながら、ぽつりとこぼす。
「いろいろと、か?」
「そうです!」
本当に、いろいろと。
大きな木の下、彼と紡いだ思い出はたくさんある。
幼いころからずっと一緒にいたのだから。
これからも共に過ごせればいい、とぼんやり考える。
「最近だと、別当さまが熊野別当になった後の……」
人差し指を立てて、記憶をさかのぼる。
あの日を、思い出す。
「どの話だ?」
問われて、は首をかしげてしまう。
どう説明したらいいのだろうか?
「分かんねえから、全部話せ」
オレだけ思い出せないなんてしゃくだからな、と呟く。
「少し長いですけど、かまいませんか?」
「ああ」
確認を取ると、少女はわざとらしく咳払いをする。
それから彼に向き直って、口を開く。
「あれは――」
******
待っているというのはこんなにも大変なことなのか、とは初めて知った。
いつもであれば自分から探しに行ったり、彼の方から進んで会いに来てくれていたから。
自身が待つ立場になるだなんて思ってもいなかった。
しかしここで待つと言伝を出した以上は、動くわけにはいかない。
ふう、と息をはいて、幹に寄りかかったまま上を仰ぐ。
木の下にいるのだから、空が見えるはずもない。
葉の隙間から差し込む太陽の光は強い。
夏は終わろうとしていたが、まだ日差しは弱まらないようだ。
風に揺すられて枝が音をかなでる。
その音色が記憶の中の楽器に良く似ていた。
琴の一種だったが、名前は知らない。
聞いたのは先代の主催した酒盛りのときだろう。
烏のみなも加わって、もなぜか連れていかれた。
少年も耳をすませて聞いていたのを思い出す。
後で名を調べておこう、と心にとどめる。
今は、それどころではない。
とても重要な用がある。
今日は忙しい。
早く、彼に会わなければ。
時間がないのだ。
儀式が始まってしまえば、もう意味がない。
心が急く。言わなければいけない、と。
すそをいじっていた少女の目に、足元の草花が映った。
藤袴の小さな花が風になびいていた。
可愛らしい姿に少女もわずかに落ち着きを取り戻す。
顔を上げると、近づいてくる小さな影が見える。
やっと、来た。
「別当さま!」
いまだ言いなれない職名を呼び、は大きく手を振る。
来てくれて嬉しいと、体全体で表す。
木陰に入ったところで彼は息を整える。
まだ着替えは済んでいないらしく、いつも通りの格好をしていた。
それは彼女も同じ。
町の子どもが着ているような服。
今日で、お別れの童子姿だ。
「何だよ。
今日はお前もオレも、忙しいってのに」
そうだ。今日は大切な、少女にとって一生に一度の特別な日。
だから会って話をしたかった。
「来てくれて、ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
今日は彼も多忙だから来れない可能性もあった。
けれど、優しい少年は走ってきてくれた。
喜びは言葉にしきれない。
「私、今日……大人になります」
少女の成人の儀は、今日。
そして――。
「烏にもなります」
同時に行われる烏の任をたまわる儀。
熊野別当である彼が任命する。
一度に二つの儀式をすることは珍しくない。
烏は特殊な役柄ゆえに、幼いころからの教育が必要だ。
自然と親類で受け継がれていくことが多くなる。
子どものうちに学ぶことができれば、早く烏になれる。
だから、成人と共に任されることもあるのだ。
「私が烏になるのは、別当さまの役に立ちたいからです」
心のままを言葉にする。
役に立ちたい。
少女の一番大切な気持ち。
熊野別当を継いで、数十日。
少年が熊野のためにとせわしなく走りまわっていたことをは知っている。
慌ただしかった後任式。次々に辞めていく者たち。
やっと、落ち着いてきたところなのだ。
ここまでくるための苦労は底知れないものだったはず。
奮闘する彼の顔には疲れの色があり、心の底からの笑みを浮かべることがなくなった。
まだ子どもの少女には、ただ見ていることしかできなかった。
烏の知り合いに「辞めないで」と頼みこむことしかできなかった。
力になりたい。そう幾度となく思った。
つらかった。苦しかった。役に立てない自分が悔しかった。
だから、烏になる――。
「別当さまのために働きたいんです」
『ため』と言うと恩着せがましい気もしたが、他に言葉が見つからない。
烏はにとって、身近な職だった。
幼いころより、烏になるんだと簡単に考えていた。
そのためのしつけもされていたし、大して疑問も持たなかった。
記憶力の良さや五感の鋭さなど、必要なものは備わっていたし、鍛えてきた。
偉大な父や大好きな叔母の職業だからと憧れはあった。
周りに流されて、それでいいと思っていた。
けれど彼と知り合ってから、世界が変わった。
熊野別当の嫡男。優しく温かな少年。
彼の役に立ちたい、と強い気持ちが生まれた。
烏になるための勉強に以前より身を入れるようになった。
優しさを返したい。その一心で。
すべては、彼のために。
「私の決意を、知っておいてほしかったんです」
真剣な面もちのまま、言い終える。
少年は静かに聞いてくれていた。
「そっか。
……まあ、無理するなよ」
その言葉に思わず吹き出す。
こんなときまで自分を気づかってくれる。
優しさが、とても嬉しかった。
「はい、分かりました!」
満面の笑顔で答える。
「ならいい」
そう言って、彼も明るく笑った。
久々の、温かな笑み。
上辺だけではない本当の表情を見れて、は安堵した。
「もう、って呼べないな」
思い出したかのように、少年はいきなり言う。
「え!? べ、別に今のままで……」
平気です。と告げることはできなかった。
少女の唇に彼の人差し指が当てられる。
かすかな感触に目を丸くする。
「お前を大人だと認めてやる」
にやりと口のはしを上げて、内緒話のようにそっと囁かれる。
変わる呼び名は、大人となる証ということだろうか。
確かに烏になれば烏名を授かる。
烏名とは、仕事のときに使う仮の名。
普段は本名で呼び合うのは珍しくない。
本来の名前を告げるのが禁じられるわけではないのだから。
特にのように、烏名を与えられる前に名前が浸透してしまっている場合は。
けれど彼は、もう「」とは呼ばない。
少し悲しいような気もしたが、大人と認めてもらえる喜びの方が大きい。
昔から年より幼く見られていた自分が、やっと成人を迎える。
周りよりは少し遅いが、それでも嬉しかった。
これからは役に立つことができるのだ。
烏として力を尽くせば、支えになることもできる。
彼を、守れる。
たまらなく幸せだと感じた。
「ほら、急ぐぞ!
きっと雁堆の説教が待ってるだろうからな」
そう言って少女の手を取って駆け出す。
父のお説教は長いことで有名だ。
「は、はい!!」
半ば引きずられるようにしても走る。
つながれた手のぬくもりが心地いい。
ふと振り向くと、薄紫色の藤袴が揺れていた。
まるで応援してくれているようだ、と少女は思う。
大人になるために、二人は本宮へと向かうのだった。
******
語り終えると、彼の顔を覗き見た。
二、三度頷く様子から、どうやら忘れていたわけではないらしいと分かる。
そのことにほっと息をはく。
自分だけしか覚えていないというのは、少し寂しいから。
「そんなこともあったな。
にしても、お前ホント記憶力いいよなー」
一言一句まで覚えてるなんて、ありえねえ。と口をとがらせて言う。
「ありがとうございます!」
笑顔でお礼をするが、
「いや、褒めてねえし」
と突っ込まれてしまう。
思わずきょとんとした少女に、何が面白いのか笑い出す少年。
彼が楽しいのならそれでいいとも笑みを浮かべた。
視界のはしに映る、風にそよぐ三つに割れた葉。
いつか助けてもらった藤袴。
もう二月もすれば可憐な花を咲かすであろうそれに、心の中で礼を言う。
あのときはありがとうございました、と。
「儀式でお前、こけたよな」
「わ、忘れてください!」
恥ずかしい失敗談に思わず叫ぶ。
あの時は着慣れない正装に足をとられて、ものの見事に転んでしまったのだ。
「子どものころに、この木から落ちたこともあったな」
懐かしい思い出話に少女も瞳を和ませる。
「別当さまが助け起こしてくれたんですよね。
思えば私、迷惑かけてばかりです」
大人になったからといって、すぐに役立てるわけではなかった。
それは成人してすぐに知った事実。
現実は甘くはなかった。
だから、がんばりたい。
いつか力になれるよう、今は精一杯の努力をしよう。
烏として彼を支えられるように。
大切な存在を守ることができるように。
「けど、こんなこともあっただろ」
声に顔を上げて、話に耳をかたむける。
過去を語り合えるのは大人のしるし。
子どもでなくなって、良かったことも確かにあった。
そのことには笑みを浮かべた。
大きな木の下、昔話に花を咲かせる少年少女。
それを見た湛快が大笑いし、雁堆が渋い顔をしたのは、少し先の話。
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お祭り用創作ですv
な、なんとかお花もからませることができました!
お題があるって、どきどきしますねv くせになりそうです♪
補足しておくと、『辞める』っていうのは烏を辞めるのではなく、熊野別当と手を切るということです。
烏=別当の部下。ではないってことで。
あはは、またオリジナル設定作っちゃいました〜。
(2006/11/10)