毎日君と見ている青空




 六時。
 けたたましいアラーム音には目を覚ます。
 手探りでスイッチを押すと、おとなしくそれは止まった。
 起き上がって、大きく伸びをする。
 寝起きのいい少女の目はそれだけでぱっちりと開いた。

 今日も、一日が始まる。



 六時二十分。
 顔を洗って歯を磨いて、普段着に着替え終わった
 玄関で靴を履いて外に出る。
 朝の空気をいっぱいに吸いこむ。
 それから、元気に駆けだした。
 もう日課となっているジョギング。広い藤原邸の敷地内を一周する。
 途中で、ふと立ち止まる。
 視線の先にあるのは、本家の屋敷。
 ヒノエはまだ寝ているだろうか?
 意外と寝ボスケさんなところがあるから、まだかもしれない。
 そう考えて、くすりと笑みをもらす。
 後で迎えに行きます。と呟いてその場を離れた。
 温かな日差しを浴びながら、少女は気持ちよさそうに走っていた。



 七時。
 軽くシャワーで汗を流してから、居間に向かう。
 ダイニングテーブルには、すでに朝食が並んでいた。
「ああ、。ちょうど呼びにいこうと思っていたのよ。
 さ、食卓についてちょうだい」
「はい!」
 穏やかな母の言葉に返事をして、席につく。
 向かいでは、父が新聞を広げていた。
「ほら、お父さんもそれをしまってくださいな」
 注意をされた雁堆は、無言で椅子の後ろのポケットに新聞を入れる。
 旭には敵わない父には笑みをこぼす。
 何年経っても仲むつまじい両親だ。
 そんな二人から生まれてこられたことを、幸せだと思える。



 七時五十分。
 約束の時間より先に、隣の家の前へ。
 チャイムを鳴らすとヒノエの母の声が聞こえてきた。
ちゃんね? どうぞ入って〜』
「分かりました!」
 鍵は持っていたので中に入っていく。
 居間に少女のような外見の女性がいた。
「ごめんなさいね。
 ヒノエ、まだ髪を整えてて」
 少年の母の千鶴だ。
「いえ、大丈夫です」
 実際に時間には余裕があるから、そう答えた。
「そう? ちゃんはいい子ね」
 千鶴は意味もなく『いい子』だと言う。
 ヒノエに使っていたときに、彼がすごく嫌な顔をしていたのを覚えている。
 口癖なのだろうか? とのんびり思う。

 がちゃりと扉が開いて、幼なじみが顔を出す。
 人の目を集める整った顔立ちに、染めたようにも見える赤毛。
 学ランの前ボタンがすべて外されているのもいつものことだった。
「おはようございます、ヒノエ先輩!」
 明るく朝の挨拶をする。
 彼はほっぽってあった学校指定のかばんを手にとって、こちらを向く。
「ん。
 じゃ行くぞ」
「はい!!」
 は少年の後を、とてとてとついていく。
 玄関を出て、整備された道を歩く。
 学校までの道のりは遠くはない。
 短い間ではあるけれど、一緒にいられる登下校が好きだった。
「今日はお弁当にクリームコロッケが入ってるんですよ!
 すっごく楽しみです♪」
「それ、オレも一つな」
「もちろんです!」
 楽しく会話を交わしながら、二人は学校へと向かうのだった。



 八時十分。
「藤原くん、藤原さん、おはよー」
「おはよ」
「おはようございます!」
 数人の生徒と挨拶をし合いながら、校門をくぐる。
「じゃあ、また昼な」
 ヒノエが階段を一段上がって、振り返る。
 四十センチもの差が生まれるので、少し首が痛い。
「分かりました!」
 頷いて、大きく手を振る。
 彼も右手を上げて応えてくれる。
 後ろ姿が完全に見えなくなってから、少女も昇降口に足を進めた。



 八時十五分。
「おはようございます!」
 教室のドアを開けて、大きく挨拶をする。
「おはよう」
「はよ〜」
 気軽な返事に笑顔を返しながら、席に着く。
「譲さん、おはようございます!」
 隣の席の男子にも声をかける。
 一つ上の学年に兄弟がいるから名前で呼ぶようにと言われていた。
「あ、おはよう」
 わざわざ本から顔を上げて答えてくれた。
「日誌、取ってきたから」
 黄緑のファイルを出して、言う。
 さりげない気配りができる人だった。
「ありがとうございます!」
 笑みを浮かべてお礼をすると、譲も笑みをこぼす。
「いや、仕事配分は前と同じでかまわないか?」
「大丈夫です!」
 一月に一度程度で回ってくる日直。
 これで二回目だった。
 背が低く力のないのことを思って、黒板消しや荷物運びは譲の仕事。
 筆記作業が自分の仕事だ。
 日誌に日にちを書いて、がんばるぞ、と気合いを入れた。



 十時四十分。
 移動教室で廊下を歩いていると、ヒノエとばったり出くわした。
「よ。次はなんだ?」
「生物です!」
 元気に答えると、彼は顔をしかめる。
「……ってことは、あいつか」
 先生であり親戚でもある男性を思い浮かべて、少女も苦笑する。
 藤原弁慶。ヒノエの父、湛快の弟。
 学校では必要最低限しか話さないが、良く家に遊びに来る。
「オレは家庭科だから、じゃあな」
 家庭科室の前で立ち止まる。
 理科室はもう一階上だ。
「がんばってくださいね!」
 が言うと、当たり前だ、と少年は不適な笑みを見せた。
 がんばれよ、と言うように頭を軽く叩かれる。
 それを途惑うことなく受けて、がんばろう、と思えた。

 理科室に入ると、数人の女子に囲まれる。
「ねえねえ、藤原先輩と知り合いなの!?」
「すっごい親しげじゃなかった?」
「そういえば名字も同じだし、もしかして妹とか!?」
 甲高い声で問いかけてくる。
「遠い親戚なんです」
 慣れていたので、笑顔で返す。
 その返答にさらに女の子たちは騒ぐ。
「いいなあ〜。
 良かったら今度紹介してね!」
 その言葉には曖昧に笑い、席に着く。
 ヒノエは、大企業の社長であり名門藤原家の総帥である湛快の一人息子。
 本人の容姿も助長して、幼きころより注目を浴びてきた。
 そのため近しい存在であるを利用しようとする者も少なからずいた。
 取り入って好印象を得ようとするなら優しい方。
 過去に一度だけ、さらわれそうになったことまである。
 ヒノエ付きのボディガードのおかげでそのときは事なきをえたが。
 登下校を共にするのは、何かあったときに二人して守れるようにだった。
 それだけ彼の周りには危険がつきない。
「お前も大変だな」
 いつの間にか隣に座っていた譲に肩を軽く叩かれる。
「私、丈夫ですから」
 少女は明るく告げる。
 どんなに大変だろうと、平気だった。
 何があってもつらくなんて感じなかった。
 ヒノエと一緒にいたいから。
 役に、立ちたいから。



 十二時三十分。
 四時間目の授業が終わり、日誌を取り出して成果を書き込む。
 ふと黒板を見ると、まだ消していなかった。
 仕事をきちんとこなす彼が珍しい。
 見回して探すと、出入り口で誰かと話しこんでいた。
 バッチの色は二年だ。
 きっと用事があったのだろう。と思い、黒板消しを手にする。
 幸い、高いところまで書かれてはいなかった。
「だからね、顧問は景時先生と弁慶先生が受け持ってくれるの!
 ほんとはリズ先生に頼みたかったんだけど、英会話部で忙しいだろうから。
 でも、なかなか人数が集まらなくって。
 だから譲くんも入ってくれない?」
「まあ、先輩がそういうなら……」
「おいおい譲。
 少しは止めるとかしろって」
 三人の会話が耳に入ってくる。
 部活動の勧誘だろうか?
 彼は弓道部に所属していたが、この学園は部活兼用を許可していた。

 すべて綺麗にし終わって、弁当箱を持つ。
 今ごろヒノエと敦盛が中庭で待っていることだろう。
 手を洗って早く行かなくては。

「譲さん。黒板、消しておきましたから」
 ついでに出入り口にいる譲に声をかける。
「ああ、すまないな」
 本当に申し訳なさそうに謝られた。
 いえ、と首を振ってから通り過ぎようとする。
 が、立ちふさがる影があった。
「あなた、部活は?」
 さっきまで譲と話していた女の子が声をかけてきた。
「え? 入ってませんけど」
 正直に言うと彼女は瞳を輝かせる。
 悪い予感が、した。
「同好会に入らない?」
 の手を握って誘う。
「でも、ヒノエ先輩が……」
 部活動をしては一緒に帰ることができなくなってしまう。
 思わずもらすと、彼女がすばやく反応を示す。
「ヒノエくん、って?」
 隣にいる男を仰いで訊く。
 彼は面倒くさそうに頭を掻いている。
「あ、知ってるぞ。
 確か藤原たん――」
「だ、ダメです!!
 ヒノエ先輩、気にしてるんですから!」
 本名を口にしようとするのをあわてて制す。
 ヒノエは自分の名前が好きではなかった。
 理由は……分からないが。
 だからあだ名で呼ぶようにとみんなに言っていた。
「ふうん、変わった人だね。
 一緒に入ってもらえば問題ないんじゃない?」
 できればしてほしくなかった提案をする。
 じゃあ行こっか、と彼女は楽しそうに笑う。
 その笑顔が可愛いと思ってしまったのも、また事実だった。



 十二時五十分。
「で、何を連れてきてんだ?」
 面倒事が嫌いな彼は不機嫌に言った。
 うり、と耳を引っ張られる。
 手加減をされているので痛くはなかった。
「すみません……」
 顔を合わせられずに、うなだれる。
 迷惑はかけたくなかったのに。
「い、いや、が気に病むことはない」
 敦盛がフォローをする。
 ヒノエは面白くなさそうに腕を組んだままだ。
 やはり、連れてこない方が良かったのだろうか。
 三人もぞろぞろと来られてたのでは、迷惑だっただろう。
 少女はさらに落ち込む。
「まあ、可愛い子の頼みだし、話だけは聞こうか」
 彼女の手を取って話す。
 また、始まった。
 女性に対する態度だけは違うのだ。
 優しいヒノエは女の人にはさらに優しい。
「本当!?」
 嬉しそうな笑顔に、気持ちが少し浮上する。
 彼女の笑みは周りを華やかに彩ってくれるものだった。

「じゃあ、これから説明を始めます!」

 まとめるとこういうことだった。
 『八葉クラブ』という名前の同好会。
 やることは二つ。
 学園の不思議を調べることと、学園の相談を受けること。
 学園の平和のために日々奔走する。というものだった。

「生徒会や風紀や、広報に任せとけばいいんじゃねえの?」
 少年は渋い顔をする。
「そこをあえてやるのがいいの!」
 望美と名乗った彼女は握りこぶしを作って語った。
 将臣と言う男は、付き合ってらんねえ、と首を振る。

 面白そう、と考えていたの肩を譲がつつく。
「巻き込んでごめんな。
 この埋め合わせはコージーコーナーのナポレオンパイでいいか?」
 どうやら負い目を感じているらしい。
 大丈夫です、と笑って言う。
「話を聞いてると楽しそうですし、気にしないでください!
 ……でも、ナポレオンパイは食べたいです」
 思ったままを告げると、噴き出された。
 さすがに意地汚かっただろうか?
「分かった。今度、買ってくるよ」
 まだ笑いをかみ殺しきれずにいる譲に、少し恥ずかしくなる。
「ありがとうございます!」
 それでもナポレオンパイは好きだったので、笑顔でお礼を言った。

「……よし、入ってやるよ」
 ヒノエの声がやけに響いた。
「やった!! ありがとう♪」
 望美の喜びように、自分まで嬉しくなる。
 彼女との同好会生活は飽きなさそうだ。
「他でもない望美のお願いだからね。
 聞かない男はいないさ」
 望美の手の甲に口づけようとしたのを、すんでのところで譲が止める。
「こいつは危険ですから、春日先輩は近づかないようにしてください」
 彼女を背中にかばいながら発せられた言葉に、むっとする。
「ヒノエ先輩は危険じゃありませんよ!!」
「同好会の仲間なんだから仲良くしないと!」
 異なる視点からの反論に、譲はたじろぐ。
 無意識にか兄に助けを求めるように視線をさまよわせる。

「危険かどうかは置いといて、ほどほどにしねえと愛想つかされっぞ」
 と、将臣はヒノエに向かって告げた。
 少年は眉をひそめて顔をそらす。
 何を指しているのかは、には良く理解できなかった。
「ヒノエが入部するのなら、私も」
 敦盛の申し出に望美は、よし! と声を上げる。
「あなたも入ってくれる?」
 こちらを向いて、尋ねてくる。
「もちろんです!」
 もとよりそのつもりだった少女は大きく頷く。
「部員数確保ぉっ!!」
 満面の笑みを浮かべてはしゃぐ彼女を見て、これからが楽しみになった。

 それからみんなで仲良く昼食を食べた。
 いろいろな意味で、にぎやかな食事となった。
 旭お手製クリームコロッケは、中でも大人気だった。



 四時。
 書き終えた日誌は譲が提出してくれると言ったので、の仕事はもうなかった。
 ヒノエが待っているだろうからと、自然と急ぎ足になる。
「おや
 今、帰りですか?」
 生徒には向けられない親しみのこもった声に驚いて、辺りを見回してしまう。
 誰もいないことを確認して、安堵からため息をもらす。
「びっくりしましたよぉ〜」
「ふふ。心配しなくても、人がいないところでしか声をかけませんよ」
 白衣を着て、長い薄茶の髪を後ろで結んでいる青年こそ、弁慶だ。
 人を驚かせるのが趣味なのでは、と本気で疑ってしまいそうになりそうだ。
「可愛い君を送ることができればいいのですが、そうもいきません。
 気をつけて帰ってくださいね」
 穏やかな笑みを浮かべているが、まなざしは真剣そのものだ。
 少女の過去を知っているから言ってくれるのだろう。
 心配してくれている。
 伯父だけあって、ヒノエと良く似ている。
 共通点を見つけて、は嬉しくなった。
「はい。ありがとうございます」
 笑顔でお礼を述べる。

「ヒノエを頼みますね」
 頭をなでられながら告げられた言葉に、目を丸くする。
 なぜ自分に頼むのだろうか?
 父である湛快ではなく。
 疑問を訊こうとしたときには、弁慶はすでに遠くで微笑んでいた。



 四時十分。
 校門の前の少年に走り寄る。
「お待たせしました、ヒノエ先輩!」
「……ん」
 少女を視界のはしに見とめると、彼はさっさと歩を進めてしまう。
 後をついていきながら、は首をかしげる。
 様子がおかしい。
 思い返してみると、昼時もそうだった。
 口数が極端に少ない。
 ずっとしかめっ面のままだった。
 どうしたのだろう?
 弁慶の心配そうな言葉も引っかかる。
 事情を知っていたのだろうか?
 それならあの言動も一応は納得がいく。
 ヒノエに何があったというのだろう?

「八葉クラブ、楽しみですね!」
 重い空気を変えたくて、話題を探す。
 同好会は今は正式には発足されていない。
 これから書類を提出するらしく、本格的に始動するのはまだ先になる。
 その日が待ち遠しかった。
 けれど少年は無言のままだ。
「ヒノエ先輩と一緒に活動できるだなんて、夢のようです♪」
 めげずに話しかけてみる。
 今度は反応があった。
「……本当か?」
 足を止めて、こちらを向く。
 つられて立ち止まってヒノエを見る。
「どうかしたんですか?」
 問いの意図がつかめなかった。
 質問に質問を返すのは悪いと思ったが、尋ねてしまう。
 さっきから明らかに変だ。
「お前は、あいつのことが……」
 彼の瞳が不安げに揺れる。
 『あいつ』とは誰を指しているのだろうか?
「何でもない」
 ふいっと顔をそむけて、また歩き出す。
 理解はできなかったが、自分が関わっているらしいことは分かった。
 となると、解決策を編み出さなくてはいけない。
 気分を浮上させる方法を。
 う〜ん、と考え込む。
 なかなかに難題だった。

 思考の底にしずみ込んでいた少女は、気づかなかった。
 いつもと違う道を通っていることに。
 はっと我に返ったときには、駅前にいた。
「ひひっ、ヒノエ先輩!?」
 先を歩いていたヒノエをうかがう。
 少年は当然、とばかりに一瞥をくれた。
「いくらでも買ってやる」
「はいぃ!?」
 意味がとれずにまぬけな声を上げる。
「ナポレオンパイだろうと何だろうと、好きなだけだ」
 無愛想にそれだけ言って進んでいく。
 彼の言葉が正しければ、今向かっているのはコージーコーナー。
 好きなだけのケーキ。
 思わず想像して、しまった、とあわてて打ち消す。
「どうしてですか!?
 私、何にもしてません!」
 確かにヒノエは何もなくても贈り物をするが、それだって理由があるはずだ。

「お前に物をやるのは、オレだけでいい」

 目を合わせようとせずに、ぶっきらぼうに告げられる。
 『オレだけでいい』?
 記憶を探って、昼に譲にナポレオンパイをおごってもらう約束をしたのを思い出す。
 それが気に食わなかったのだろうか。
 子どもじみた行為に笑みをもらす。
「明日、断っておきます」
 譲も簡単に納得してくれるだろう。
「その分オレが何倍にもして買ってやるよ」
 やっと少しだけ彼は笑った。
 そのことにほっとする。
 にとって重要なのは、ヒノエ。
 他は二の次だった。


 今日は好意に甘えることにしよう。
 食べたいケーキを思い浮かべながら、少女は笑顔で後をついていくのだった。



 十時四十分。
 風呂から上がって、髪をとかしていたとき。
 携帯から音楽が流れてきた。
 その曲はヒノエの指定音だったので、即座に携帯を開いた。
 メールが一通来ていた。

 『窓の外』

 たったの三文字が目に入る。
 簡潔すぎる彼のメールには慣れていたので、すぐに窓を開ける。
「こんばんはです」
「ん」
 ベランダにいる彼に深々と夜の挨拶をする。
 二階のの部屋の側に、高い木がある。
 外から登ればここまで簡単に来れてしまうのだ。
 同じ敷地内にある家だからこそできることだった。

「ケーキ、本当においしかったです。
 ありがとうございました」
 何度も言ったことを繰り返す。
 あれから少年の家に世話になり、お茶とケーキを頂いた。
 なじみの深い家庭でとても楽しい一時を過ごせた。
「お前が嬉しかったんなら、それでいい」
 彼は満足そうに口はしを上げる。

 温かな沈黙が訪れる。
 ほとんど毎日、こうして顔を合わせる時間が、好きだ。
 特に何を話すでもない。
 登下校や昼休みなどで、語りつくしてしまうのだから。
 新たな発見などがないときは、静かに時が流れていくだけ。
 それが、何よりも幸せだった。

「ヒノエ先輩は……」
「おい」
 一つ尋ねたいことがあって口を開くが、なぜかさえぎられる。
「へ? え〜っと」
 訳が分からずに首をかしげていると、
「家にいるときは?」
 顎を突き出して問いかけてくる。
 は目を瞬かせて、自らの失態に気づく。
 学校にいたときの癖が抜けていなかった。
「あ、はい。すみません」
 頭を下げて謝ってから、軽く息を吸う。
「ヒノエ兄さま」
 大切なものを扱うようにゆっくりと紡ぐ。
 藤原家では、年上の者を兄や姉と呼ぶ。
 二人も類にはもれない。
 これには本家であるヒノエを敬う気持ちも含まれている。

「で、なんだ」
 どうやら話に付き合ってくれるらしい。
「ヒノエ兄さまは、『八葉クラブ』楽しみですか?」
 彼が了承したとき、あまり嬉しそうな表情をしていなかったから、気になった。
 は、はっきり言ってかなり楽しみだった。
 今までは許されていながらも、部活動をしたことはなかった。
 家の都合を考えると、自分一人だけが遅く帰るわけにはいかなかったから。
 ヒノエが頷いたということは平気だろうと思って、入部を決意したのだ。

「そりゃあ、やっかいごとが増えたなと思ったさ」
「本当ですか!?」
 思わず身を乗り出してしまう。
 少年は実は嫌だったのだろうか?
 時間もないのに部活に入ることが決定してしまい、後悔しているのだろうか?
 あの三人を連れて行ってしまったのは、間違いだったのだろうか?
「……そんな顔すんなよ」
 そっと手が伸ばされてくる。
 優しく頭をなでた後、少女のぬれた髪を一房とって、もてあそぶ。
「けど、けっこう面白そうだとも思った」
 にやりと笑んで、言った。
 その言葉にはほっと息をはく。
 彼女らを連れていったのに間違いはなかったようだ。

「良かったです!」
 笑顔で本心を告げる。
 ヒノエが望んだことなのだと知ることができて。
 あの人たちをがっかりさせずにすんで。
「そっか」
 眩しいものでも見るように、彼は目を細める。
 いじっていた髪を一度ゆるく引っ張って、手を放した。

「じゃあな」
 そう言って手を振ってくる。
「はい、また明日」
「ん」
 手を振り返して、返事を聞いてから窓を閉める。
 明日も、きっと同じことの繰り返し。
 そんないつも通りの毎日が続くことが、たまらなく幸せだった。



 十一時。
 乾かし終わった髪を軽く梳いてから、ドライヤーを片付ける。
 電気を消して、布団にもぐりこむ。
 今日もいい夢が見れそうだった。

「おやすみなさい、ヒノエ兄さま」
 いくらもしないうちに、すこやかな寝息が聞こえてきたとか。








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 きり番2500、リクは「パラレルの別当様夢」です。
 リクエストありがとうございました!!
 とにかく長い! 史上初の長さです。
 ヒロイン一日密着取材、てな感じで。  なんとかほのぼのになった気がします。
 「兄さま」は萌えと煩悩の赴くままに〜、ですね。
(2007/1/25)