春の始まる朝
翌日、かけられていた衣の存在に、女房は皆活気づいた。
誰が通ってきたのか。どこまで進んだのか。それはもう本当に楽しそうに次々と訊いてくる。
まさか彼の名を出すわけにもいかず、曖昧に返事をしていた。
それでも鼻のいい彼女たちはあきらめることなく、今度は衣から推測しだした。
生地ですぐに高い身分だと分かる。
色、刺繍、香まで、人によって好みは違う。
それらを分析し、やがて一人の男性の名前が呟かれた。
――経正殿、と。
言い当てられたときの心境は言葉にはできない。
少し顔を赤くした、否定をしない。
女房たちは面白いものを見つけたかのように、瞳を細めていた。
そしてそれからすぐに噂の当人が訪ねてくることにより、推測は真実味を持って広がっていったという。
経正の後を追って局を出て、簀子を渡る。
衣を返して終わるかと思っていた二度目の逢瀬は、女房の言のおかげでまだ続いていた。
彼女らは気を利かせたつもりであろう。
お節介にも程があるが。
とんだ迷惑をかけてしまい、申し訳なくなる。
それでも一緒にいられて嬉しいと感じることだけは抑えられない。
やわらかな初春の朝の日差し。
中天を目指して昇り始めた太陽は、青い空で輝いている。
梅の咲き乱れる庭を、端近から二人で眺めていた。
夜に出会った月精のような彼も、のどかな陽光を受ける穏やかな彼も、どちらも見惚れてしまうほど綺麗だと思いながら。
「実は前から、あなたのことは知っていました」
笑みをたたえ、花を見やりながら彼は語り始めた。
低く落ち着いた声に聞き入る。
「楽の才ある年若い女房がいる、と。
……少し抜けているところもあるのだそうですが」
微苦笑をこぼした男を見て、あまりいい噂だけではないことを知った。
思い出したくもないような過去の失敗談の数々。
やっとなくなってきた方だったというのに、今回の騒ぎ。
幼きころに怒られ続けていた『お転婆娘』はあまり成長していなかったらしい。
「どんな方なのか、ずっと気になっていたのです」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
何かを思い返しているのか、瞳を伏せて。
「会って、がっかりいたしましたか?」
経正なら否定すると分かっていながら、尋ねる。
「いいえ。素晴らしい方だと思いました。
噂に間違いはなかったのだと」
こちらを向いて嬉しそうに笑んだ。
会えて良かった、と言ってもらえているようで、も喜びに自然と笑顔になる。
温かなまなざしをいつまででも見つめていたい。
和やかなはしばみ色の瞳にずっと映っていたい。
そう考えるのは、自分が今『恋』をしているから。
夢にも出てくるほど慕っていた。
寂しい存在である男の傍らにいたい。
それが少女の願い。
たった一夜で育んだ想いは、とても大きなものだった。
「あなたに出会えた幸運に感謝します」
彼は晴れやかな笑みを浮かべて言った。
それだけで胸が一杯になる。
こうして共に過ごせるだけでいい。
想いが伝わらなくても、経正が心穏やかでいてくれさえすれば。
は幸せなのだと思った。
「これを」
男の袂から春の一枝が顔を覗かせ、それが少女に差し出される。
良く見ると文が結ばれていた。
「頂いてもよろしいのですか?」
目の前のものの正体に薄々気づいていながらも訊いてみる。
もしかすると勘違いかもしれない。
けれどどうか当たっていてほしいと望んでしまう。
「受け取ってくださらなければ意味がありません」
困ったような笑みに予想が的中したことを悟って、は顔をほころばせた。
「でしたら、喜んで」
頷いたときの彼の安堵した表情が、心に焼き付いて消えなかった。
男の手から直接渡された文には。
――恋歌が、綴られていた。
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「月の照る夜」の翌日の朝のこと。
経正さん、口説きにいそいそとやってまいりました(嘘)
ここで終わりでもきりがいい気もしますね。
(2007/3/24)