己が役割果たさざるして




 秋の香りが風に運ばれてくる、静かな夜。
 一年に一度、恋人たちの逢瀬の日が、もう半刻もせずに終わろうとしていた。
 牽牛と棚機津女の、別れの刻限が迫っている。
 上弦の月の船に乗って、名残惜しく思いながらもまた、元の生活に戻っていくのだろう。

「汝が恋ふる、妹の命は飽き足らに。袖振る見えつ、雲隠るまで」
 ヒノエは薄曇りの空を見上げ、誰に聞かせるともなく呟いた。
 もっとも、少年の三歩後ろにいる耳の良い彼女には、聞き取れたろうけれど。
 年頃の娘には珍しく情緒に欠けたところがあるは、きっとこの歌に込められた哀しみを、読み取りはしても理解はしない。
 感情表現は豊かな割に、少女は風情というものを理解できない。
 綺麗なものは綺麗。可愛いものは可愛い。そういった単純で明快な言葉だけで済ませてしまう。
 隠語や暗喩など、烏として必要だからという理由だけで意味は捉えられるのだけれど。
 和歌が好きなヒノエとしては、幼なじみの素養のなさは残念なことだった。
「また来年までお別れなんですね」
 立ち止まった彼の隣でも足を止め、同じように星空を仰いで言った。
 豊穣を祈り、身を清める祭事の最中には考えもしなかったこと。
 こうして安らぎを得、やっと空の上の恋人たちに、神々に気を向けることができた。

「自業自得だろ」
 冷たくヒノエは言い放つ。
 同情の余地はない、と二神に関しては思う。
「そんなに好きなら、初めっから離れさせられるようなことしなきゃ良かったんだ」
 つまらなそうに、吐き捨てるように、少年は呟いた。
 その言葉に、がおかしそうに肩を竦ませた気配が伝わる。
 数年前の今日を、思い出したからなのだろう。
「……そうですね」
 密やかな声が宙に解ける。
 はどう思って、同意を返したのか。それが無性に気になった。
 彼女の横顔からは、何も読み取れなかった。



『何で二人は一年に一回しか会えないんだろうな。
 当たり前のことしかしてねえのに』
 まだ役目や責任なんて面倒だと考えていた、愚かなほどに幼く、何も分かっていなかった頃。
 自分は少し怒るように唇を尖らせた。
 納得できない、とばかりに。
『お役目を放ってまで遊んで暮らすのが、ですか?』
 まだ“”と呼んでいた少女は、咎める風でもなく不思議そうに尋ねてきた。
『好きになったら、きっと周りなんて見えなくなる。
 ずっと一緒にいたくて、仕事とか全部どうでも良くなって。
 それが恋とか愛ってもんだろ?』
 ニィ、と大人ぶった笑みを浮かべて、知ったような口を利く。
 憧れて、いた。
 全てを犠牲にしてまで愛を貫くことを。
 次期別当候補である自分の身が、あまり自由にならないのだと分かっていたから。

 ……本当に、子どもだった。
 今思えば、吐き気がするほど無知で勝手な憧れだ。
 何かを得るためには相応の働きをしなければならなくて。
 職務を放棄すれば大勢の人が困り、苦しむ。
 誰かの不幸の上に成り立つ幸福なんて、所詮は偽りでしかないというのに。
 そんなことすら、幼いヒノエは知ろうともしなかった。



「オレが牽牛なら、自分の責務を怠ったりなんてしない。
 やるべきことを果たさずに、本当に幸せになんてなれるはずないんだ」
 きっぱりとした口調で、一寸の甘えも許さない鋭い眼光で、ヒノエは言い切った。
 それは己に向けた言葉だった。
「別当さまらしいです」
 柔らかなの声がヒノエの耳をくすぐる。
 人より幾分か高い声を心地良いと感じられるくらいには、長い時を共有してきた。
 少女も、そう思ってくれているだろうか?
 自分と過ごす時を、大切だと、無くしたくないものなのだと。
 そうならいいと思った。それなら救われる。
 己にのしかかってくる重圧を、耐えられる、抱えていけると思った。
「……ま、最近になってやっと分かったんだけどな」
 ふう、と一つため息をつく。
 別当になってから、何もかも変わった。
 急に跡を継ぐことになって、責任も義務も押しつけられて。
 途惑いながらも受け止め、受け継いで。
 努力だけではどうにもならないことを知り、それでも諦めないことの大切さを知った。
 どうして代替わりしなければならなかったのか、湛快は多くは語らない。
 けれど、熊野を巻き込まないため、守るためだということは、同じ立場になった今なら分かる。
 熊野のために、と行動するのは、熊野別当にとっての基本であり前提なのだ。

 幼い頃からずっと、熊野が好きだった。
 豊かな自然を壊したくないと思っていた。
 それでも、まだ幼かったからこそ、守り方なんていくらでもあるだろうと、軽く考えていたのだ。
 各々の役割によって、適したやり方があって。
 例えば烏が民と別当の間に立って、架け橋となるように。
 それが烏にしかできないことであるように。
 熊野別当には熊野別当にしかできないことが、当然あるに決まっていたのに。

 がどんな表情をしているのか気になって、彼は振り返る。
 空を見ているのかいないのか、焦点の定まっていない瞳。
 何を考えているのか、何も考えていないのか、読めない微笑を口元にたたえていた。
 こういう時、彼女は“烏”なのだと実感してしまう。
 たとえ本人に自覚がなくても、無意識下でもヒノエを、別当の様子を伺っている。
 複雑な苦笑をこぼして、少年は口を開いた。

「お前は、分かってたんだな。最初から」
 自分なんかより、ずっと役目に縛られている少女だから。
 それを当然と思い、それ以外の生き方を知らない少女だから。
 烏としての責任はどれほど重いのだろう?
 ……いつから、抱えていたのだろう?
 無邪気さと共に冷たさを備えて、ヒノエの隣で泣きそうな笑顔を隠していたのだろう?
「そんなことないです。
 “若さま”の答えも正しいと思いましたから」
 少し懐かしい呼称は、あの頃のもの。
 褪せることのない記憶を手繰り寄せるように、は瞳を伏せる。

「だって、どっちも相手を想えばこそのものでしたから。
 好きな人のためにどうすればいいか考えて、導き出した答えに、間違いなんてありません」

 年よりもあどけない、しかし包み込むような優しい笑み。
 こうやって、いつもありのままのヒノエを受け入れてくれる。
 それがどれほど救いになっているのか、きっと少女は知らないのだろう。
 心は、自由なのかもしれない。
 ふいにそんな気がしてきた。
 ヒノエが熊野別当でありながら、好き勝手やっているように。
 職務に忠実に見える彼女も、心だけは縛られていないのかもしれない。
 烏になった時、熊野ではなく『別当さまの力になりたい』と言ったくらいには。

「そっか。それも、一理あるかもな」
 少しだけ心にかかっていたもやが晴れ、少年は夜空を見上げた。
 先ほどまで薄くあった雲も今は風に流されて、綺麗な星々の輝きが視界に広がる。

 この調子なら、舟に乗って帰ってしまう牽牛の姿が見えなくなるのは、もう少し後になりそうだ。



 役目を放ったりしなければ、毎日だって会えただろうに。
 岸辺を離れる牽牛も、それを見送る棚機津女も、本当はずっと一緒にいたかっただろうに。
 哀れではあったけれど、同情も共感もしなかった。

 役目がどうでも良くなってしまうほどの激情はいらない。
 熊野を大切にできない自分など、人を愛する資格もないと思うから。


 どちらも守れるようになりたい、と少年は星々に願った。

 いつかそんな男になってやる、と少年は自らに誓った。








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 なんと五年も前の話の再掲です。ブログからの。
 多少加筆修正はしましたが、これだけ前の作品だと、もうどこを直せばいいやらで。
 でも、自分なりの萌えはつまっていると思います。熊野別当なヒノエさまラブ!
(2013/7/7)