序幕 日常
昼過ぎの優しい風の吹く崖の上。
そこに、少年はいた。
熊野の様子を見ていて、偶然少女の目に入った赤い髪。
「別当さま!」
見つけられたことが嬉しくて、は大きな声で呼んで駆けだす。
彼が振り返る。と、小さなくぼみに足をとられた。
こける、と思った瞬間にもう片方の足を素早く出す。
……結果、少女はなんとも不恰好な均衡をたもって立っていた。
「何やってんだよ……」
少年は呆れ顔をして、出していた手を下げる。
助けようとしてくれたのだ、と気づいて、は嬉しくなる。
「ありがとうございます!」
頭を下げてお礼を言う。
「意味なかったけどな」
ふん、とそっぽを向く。
それが照れ隠しであることを、長い付き合いのは知っていた。
「そんなことないです!!
今回は運が良かっただけですから!」
烏の中でどんくさいと言われてしまう程度の運動能力。
記憶力だけは無駄に持っている少女は、握り拳を作って言う。
彼は、烏だというのに注意力にかける、とでも言いたそうな顔をしている。
「別当さまって、本当にここが好きですよね」
ふと気になって話をふる。
冬の足音が聞こえてきそうな風の冷たさ。
いつまでもここにいたら、寒いのではないだろうか?
「ここから見える海は綺麗だからな」
言われて崖下を見る。
岩に打ち寄せる波が白いしぶきを上げている。
熊野の海は荒々しく、見る者を圧倒する。
はるか遠くには海と空の境界線。
確かに、綺麗だ。
少女は思わず息をのむ。
「特に、夕焼けが最高なんだ」
宝物を見せびらかす子どものように瞳を輝かせて言う。
本当に素敵な景色なのだろうと、その様子だけで分かる。
見てみたい。
彼が見たものと同じものを、自分も。
そう、思った。
吹きつける強い風に、少女は体を震わせる。
寒い。
夕焼けを見たい気持ちはあったが、その時刻までここにいたら体を冷やしてしまうだろう。
熊野といえど、冬は冷えるのだから。
暖かい季節になってからにしよう。と思うほどには寒いのが苦手だった。
「ほら」
声と共に着物を被せられる。
少年を仰ぎ見ると、着ていた服が一枚足りない。
自分を覆っているやつだ、とやっと気づく。
「それじゃ別当さまが寒いですよ!」
かけられた服を返そうとするが、彼は受け取らなかった。
「オレは男だからいいんだ。
お前は寒いのが嫌いなんだろ?」
「そ、そうですけど……」
それでも、彼の服をとってしまったことに申し訳なくなる。
けれど優しい少年のこと。
これが当然と思っているのだろう。
とそこで、彼の言葉を思い返して、疑問を持つ。
「私、寒いの嫌いって言ったことありましたっけ?」
子どもじみている気がして恥ずかしくて、彼には言ったことがなかったはずだ。
誰かから聞いたのだろうか?
「それくらい、見てりゃ分かる」
目を細めて笑みを作り、当たり前のように言う。
少女も自然と笑顔になった。
つまり、それだけ気にかけてもらえているということ。
そのことが嬉しかった。
部下のことをこんなにも考えてくれている。
優しい主を持って、は幸せだった。
だから。
いつも優しさをくれる彼のために、烏としてできることをしたかった。
守りたい。助けたい。
少しでも、恩返しができるように。
彼の優しさに、応られるように。
そのためにはまず、風邪をひいて迷惑をかけないようにしないと、とは衣を頭から被り直した。
小さな夢、幼い望み。
けれど、少女にとってのすべてだった。
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ヒノエ連載開始です。
いつもと変わらない、平和な日々。
(2006/10/7)