月の照る夜





 まるで、此処だけ世界から取り残されてしまったかの様に、静かな夜。
 冷たい風に乗って、琵琶の音がの耳に届く。
 正確ながらも情のこもった、何か物悲しさを感じさせる音韻。
 楽の才ありと称されるであっても、感慨を覚える。
 儚げであるのに、印象深い。
 心に染み渡るそれは、いつかは覚める、一時だけの夢のようだと思った。

 一体、誰が弾いているのだろう?
 雅と言われる平家の人間で、これ程の腕前。
 自然と人は限られてくる。
 しかも……と、は眉根をよせる。
 時は源平合戦の世。
 倶利伽羅峠の戦いでは多くの命が失われた。
 その中には楽の上手もいたのだ。
 本当に、戦とは無常なもの……と少女はため息をつく。
 幾人か候補が挙がるものの、皆違う気がする。
 自分の知らない人かもしれない。
 平家の琵琶の弾き手、全員の演奏を聴いているという訳ではないのだから。
 これほどの音を出せるのなら、噂などで知っている可能性もある。
 どの世でも女房とは気軽なもので、殿方の話で花を咲かせることなど常なのだから。
 誰だか分からなければ、余計にこの音色の持ち主のことが気になる。
 どうせ眠れなかったのだ。
 気分転換に、夜の散歩というのも良いかもしれない。
 ついでに琵琶の弾き手を確かめよう。
 はそう決めて、衝立の向こうの女房仲間を起こさないよう、ゆっくりと体を起こす。


 ******


 廂を歩いていて、は不思議なことに気付く。
 琵琶の音色がまだ遠い。
 首をひねり、降りている格子の向こうを見る。
 外、だろうか。
 けれど琵琶の音とは遠くまで届かないもの。
 どうして聞こえてくるのだろう?
 考えている間に妻戸までたどり着いてしまう。
 一瞬きほど逡巡した後、簀子へと足をつける。
 床の冷たさに体を震わす。
 春とは名ばかりで夜は冷え込む。
 吐く息は白く、風は体温を奪う。
 単姿のまま出てきてしまったことを、少し後悔する。
 寒いからと、もう一つ。
 人……特に男性に見られると、問題だから。
 見張りもいるはずだ。
 このことが知れたら、おそらく騒ぎになる。
 いくら女房といえど夜に外に出るなどはしたない。
 咎められる言葉を予想して、はうなる。
 もう少し後先考えてから行動するようにと、何度言われたことか。

 小さく、ため息をつく。
 行動を起こしてからでは遅い。
 今は、誰にも会わない様、願うのみだ。
 そう思いつつ人を探している辺り、矛盾しているのだが。
 は一つ息をはいて、足を進める。


 音は段々大きく、はっきりとしたものになってくる。
 胸の鼓動も、自然と速まる。
 いたずら心と、好奇心。
 もうすぐ琵琶の弾き手が分かる。
 多分、知らない人だろう。
 どんな人なのだろう?
 早く、見てみたい。
 期待は膨らむばかり。


 ******


 庭を見渡せる渡殿。
 そこに、探し求めた人はいた。
 は柱に隠れて様子を窺う。
 薄暗い夜の闇の中、その人は、淡い光に包まれているかのように見える。
 琵琶を弾く姿は遠目からでもはっきりとしていて。
 月明りが、彼一人にのみ注がれているのではないかと、は自分らしくもないことを思った。
 そう思わずにはいられない。
 男は、まるで天の住人のようだったから……。

 こんな人は知らない。
 こんなに苦しそうに琵琶を弾く人を、他に知らない。
 こんな……哀しくなるほど優しい雰囲気を持つ人がこの世に存在していたなんて、は今まで知らなかった。

 胸の高鳴りは、まだ続いている。
 理由は、違う気がするけれど。

 ――バチン

 にわかに琵琶の弦が切れ、その音に驚く。 
「……誰だ」
 気配で察したのだろうか。
 男は琵琶を足もとに下ろし、そう言う。
 有無を言わせぬ低い声は、先程まで琵琶を弾いていた人のものとは思えない。
 その豹変ぶりに戸惑っていると、こちらを見据える冷たい視線とぶつかる。
 瞬間、男は目を見開かせる。

「あなたは!?」
 大声に、はびくりと体を震わせる。
 男が近づいてくる。……その姿がぼやけて見えるのは、気のせいだろうか?
 目の前まで来て、ふと手をのびてくる。
 指先が頬にふれて、そこが濡れていることに気付く。
 どうして濡れている――泣いて、いるからだ。 
「何を泣いておられるのですか?」
 その問いの答えを、は知っていた。
「あなたが、あまりにも優しいから……」
 両手で顔をおおう。
 涙はとめどなくあふれてくる。
 彼の哀しみが、優しさが、琵琶の音を通して伝わってきたから。
「どうやら、私に同調してしまったようですね
 申し訳ありません」
 温かい声に顔を上げると、和やかな瞳と出会う。
「どうして謝るのですか?
 悪いのは、このような夜更けに聞き耳を立てる私の方。
 あなたはただ琵琶を弾いていただけでしょう?」
 そう言って、はたと思い出す。
 自分は単姿ではなかったか。
 今更ながら、羞恥心に頬を染める。
 それに気づいたのか、経正が衣を羽織らせてくれる。
 その優しさを嬉しく思いつつも、やはり恥ずかしかった。

「人恋しさに琵琶を鳴らしておりました。
 きっと、その音があなたをお連れしたのでしょう」
 彼の優しげな微笑みを見ていると、胸が温かくなる。
 男は手を差しのべる。
 はその手を不思議そうに見つめ、小首をかしげる。
「お送りいたしますよ」
 やはり優しい人だ、とは再確認する。


 ******


 二人は無言のまま簀子を渡る。
 つないだ手が熱をもち、鼓動は速まるばかり。
 妻戸の前まで来て、ようやく男が口を開いた。
「お名前を、訊いてもよろしいでしょうか?」
 ためらいながらそう尋ねる様子に、は笑みをこぼす。
 本当に優しい、細やかな気配りのできる人だ。
 断る理由など思いつくはずもない。
、です。
 あなたは?」
 言ってから、答えてくれるだろうかと不安になる。
 けれど心配は無用だった。
殿……。
 私は、経正。経盛卿の嫡子です」

 その言葉に、愕然とする。

「つ……ね、まさ、どの?」
 噂で聞いたことがある。
 琵琶の腕前。都落ちの際の『青山』の話。そして、倶利伽羅峠にて討たれ……怨霊としてよみがえったこと。
 今、目の前にいる、優しげな微笑みを浮かべる彼は。
 理に反する存在、怨霊。

 未だつないだままの手。震えは相手にも伝わっているはずだ。
 確かにふれて、存在しているのに、彼は生きてはいない。
「怖いのですか?」
 あくまで静かに問うその姿は人のものだというのに……。
 涙が頬をつたう。
 経正は手をのばしてくるが、それはすぐに下ろされる。
 つないでいた手も離そうと、惜しむようにゆっくりと指を解こうとする。
「……!?」
 その手をは思いきり握る。
 離さない。離してはならない。心ごと遠くへ行ってしまうから。
 そんな気がしたから。
、殿?」
 困惑した、けれどやはり優しく響く声音。
 経正の優しさが痛かった。

 両手で彼の手を包みこみ、胸に抱く。
 この思いが指先から伝わればいい、と願う。
 怖くはない、と言えば嘘になる。
 人ならざるものへの恐怖は、ある。
 それでもこの手は離したくなかった。二度と会えなくなるなど許しはしない。
 思えば噂を耳にしたことしかなかった仲。
 絆と呼ぶことすらできない関係。
 けれど彼は、自分にとって大切な存在になっていた。

 手を握ったまま、顔を上げる。
 は決意を秘めた瞳で経正を見据える。
 涙は、もう流れていない。
「経正殿、私は忘れません。
 今宵の琵琶の音色も、あなたの名前も」
 何があろうと忘れるわけがない。
 誰よりも優しく、誰よりも哀しい人のことを。
「望月の見せた夢……と、思ってはもらえませんか?」
 戸惑いを含んだ声で経正は言う。
「一夜の夢にはしたくないのです」
 はっきりと、嫌だと告げる。
 目が覚めたら消えてしまう夢だなんて、冗談ではなかった。
 これは現実。
 彼が怨霊という存在なのが事実なら、それでもまた会いたいと思っていることも事実だ。
 なおも言いつのろうと、口を開いたとき。

 経正は、笑った。

 優しげに、穏やかに、心から嬉しそうに。
 は彼の笑顔に見惚れた。
「あなたが望むなら、また会えましょう。
 あなたのために、琵琶を奏でましょう」
 一句一句、大切なことのように言う。
 約束をしてくれた。
 絹糸よりも細く、頼りないものではあるけれど、二人をつなぐ約束。
 と経正に絆が生まれた。
 そのことが何より嬉しかった。
「では、また」
 晴れやかな顔で経正は言う。
「ええ……また」
 も笑顔のまま返す。
 『また』と言えることに喜びを感じる。
 約束が存在している、ということだから。


 去っていく彼の後ろ姿を見送りながら、は気付く。
 この思いこそが、恋だということに――。








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 経正さんはとっても優しい人だと思います。
 八葉以外でなら断然一番好きキャラです!
 この後日談のネタがあるので、いつか書きたいですね〜。
 着物を返してないことに気づいた人は、目ざといです(笑)
(2006/10/7)