一〇幕 願望
翌日の昼下がり、調査を終えた少女は鳴の小屋でぼんやりとしていた。
春の陽気は温かい。
は、過ごしやすく花の綺麗なこの季節が一番好きだった。
けれど何かが足りない、と感じるのはなぜだろう?
まるで心にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
「、どうかしたの?」
心配そうな声に意識を現実に戻す。
「へ?
なんでもないですよ?」
と答えても、鳴は「そう」とだけ言い、気づかわしげな視線を向けてくる。
少女自身、どうして自分がこんなに落ち込んでいるのか分からなかった。
否、落ち込んでいるのかすら分かっていなかった。
「本当に、なんでもないんです」
自らに言い聞かせるように呟く。
上手に笑えている自信は、なかった。
「……あ」
突然、あることを思い出しては声をもらす。
自分の持ってきた荷物に歩み寄り、中から小さな包みを取り出す。
「鳴さん。これ、一緒に食べませんか?」
先日、市にて買った焼き菓子を鳴に見せる。
なんだかんだあって、食べることができなかったのだ。
「あら、おいしそうね」
彼女は口元に手をあて言う。
「そうなんです!
私だけで食べちゃうのはもったいないですから、二人で食べましょう?」
おいしいものを食べれば元気になれる気がした。
分かりやすい論理だが、少女には名案のように思えた。
「ええ、ありがとう。
ならお茶でも入れましょうか」
鳴は朗らかに笑った。
菓子はどこか優しい味がした。
蜂蜜の甘い香りが、口の中に広がる。
さくさくとした食感が舌を楽しませてくれる。
「おいしいですね!」
は顔をほころばせる。
「ええ、そうね」
笑顔で鳴は相づちをうつ。
唐菓子と比べても見劣りしないほどおいしかった。
良くヒノエがくれた唐菓子を思い出す。
熊野にいたとき、彼は遊びに行ったついでに珍しいものを持って帰ってくることがあった。
宋渡りの菓子。絹の衣類に細工のこった装飾品。
は子どもだからと菓子をもらうことが多かった。
それ以外をたまわったのは数えるほどだ。
始めの頃こそ恐縮していたが、それがヒノエの趣味だと知って、少し安心したのを覚えている。
この菓子も、一緒に食べようと買ったのだった。
が茶を入れ、たわいない話をしながら……。
彼は今、どうしているのだろう?
大切な何かを見失ってしまったかのような悲しみが、心に木霊する。
胸が締めつけられるように痛い。
「……鳴さん。
このお菓子、ちょっとだけ残しておいてもいいですか?」
文に書いてあったことに間違いがなければ、彼は明日、来るはずなのだ。
そのときに食べてもらうことができれば、心のもやも晴れるかもしれない。
「そうね」
鳴は少女の思いを知っているかのように、優しく微笑んだ。
******
約束の時間より少し前に、彼は姿を現した。
「ヒノエさま♪」
は満面の笑顔で出迎えた。
当のヒノエはそれを不審そうな目で見てくる。
「……なんで嬉しそうなんだ?」
「来てくれたからですよ!」
当然とばかりに声を上げる。
彼の顔を見れて、少女は二日ぶりに心から笑うことができたのだ。
「オレが言ったことを守らないわけねえだろ」
気分を害したように眉をひそめて怒った。
「それはそうなんですけど、やっぱり嬉しいです」
ヒノエがいないだけでこんなにつらいだなんて、熊野にいたときには知らなかった。
彼が遠くに出かけても。が仕事でしばらく会えなくても。
今回のように胸が苦しくなったりはしなかった。
どこに違いがあるのだろうと考えてはみるものの、幼い少女には分からなかった。
「まあ、いいけどな。
ところで鳴は?」
手を首にあてそう問うヒノエに変わった様子はなく、は安堵する。
「あ、鳴さんなら長岡天満宮まで様子見に行きました」
昼前にここを発ったのだから、もうそろそろ着いているだろうか。
鳴は京の現状を主に調べている。
それを記したものが、この小屋の片隅に静かに整列している。
「そっか。……気を使わせちまったみたいだな」
「ええ!?
そ、そうだったんですか?」
ヒノエの呟きに驚いて大声を出してしまう。
「ああ。きっと、自分には関係ない話だと取って、オレたちがゆっくり話せるようにしたんだろ」
確かに言われてみると。
長岡天満宮に行くのは、今日でなくても良かったはずだ。
むしろ、別の日にと共に見てきた方が効率がいい。
わざわざヒノエが来る日を選んだ理由は――。
「帰ってきたら、お礼を言わないといけませんね」
「ああ、頼む」
鳴の心配りに改めて感心させられてしまう二人だった。
「あいつの集めた情報はそれか?」
ヒノエは部屋の角に置いてある木箱を指して訊く。
「はい」
返事をして、その箱を持ってきて彼の前に差し出す。
ヒノエは無言でそれを読み始めた。
はただ静かにその様子を観察する。
くせのある緋色の髪を一部だけ編んでいるのが、不思議と似合っている。
長い睫毛が柘榴石のような瞳に影を落としていて綺麗だと思う。
どこか中性的な印象を人に与える顔立ち。
けれど体つきは細いながらもほど良くついた筋肉から、男らしさを感じさせられる。
の自慢の主だった。
見惚れていると、ふいに彼が顔を上げる。
「で、お前の方はどうだった」
尋ねられて、一瞬意味を取りかねる。
すぐに調べたことを訊いているのだと気づき、少女は口を開く。
「じゃあまず八葉のみなさんの情報から言いますね」
震の卦、地の青龍、源九郎義経。
義朝の九男にして鎌倉殿の異母弟。
母、常盤御前は相国殿の寵愛を得て、一女をもうける。
幼名は牛若丸。
鞍馬寺に預けられたがいくつになろうと出家せず、武を磨くことを良しとする。
天狗の弟子となり剣の腕を上げ、武蔵坊弁慶を負かして家来にする。
商人に混じり奥州へと向かい、手厚くもてなされる。
頼朝が挙兵した折、傘下に加わる。
すらすらと何も見ずに言う少女。
に書は必要ない。
見たもの聞いたものすべてを覚えていられるのが、少女の特技だった。
「それで次はですね……」
坤の卦、地の朱雀、武蔵坊弁慶も言い終えて、一度言葉を切る。
「乾の卦、天の白虎、有川譲。
一切不明、でしたよね」
「ああ。望美と一緒に異世界から来たと本人は言ってたけどな」
望美とは白龍の神子の名だと教えてもらった。
いまだに信用していないらしいヒノエに苦笑しながら、話を進める。
「宇治川の戦いのときに、神子さまと白龍さまと共に源氏に保護されたのは間違いないみたいです」
は神子も龍神も信じていた。
だから敬意の気持ちを込めて『さま』とつける。
「それは聞いたな。
なんでも朔を助けたとか」
朔とは黒龍の神子の名。
ヒノエ自身も探っているので、情報がかぶるのは仕方のないことだ。
「はい。
黒龍の神子さまが一人はぐれたところに、白龍の神子さまが現れたんだそうです。
それで、譲さんは肩から背中にかけて、傷を負っているらしいんです」
「それは初耳だな」
聡いヒノエが気づかないとは、相当の忍耐力だ。
「で、これからが重要なんですけど」
ここには二人しかいないというのに、つい小声になりながら言葉を紡ぐ。
「料理が上手なんです」
「…………は?」
ヒノエが間抜けな声を出す。
それは期待していた反応ではなくて、少女は首をかしげる。
『すごいな』くらいは言ってほしかったのに、と残念に思う。
「何が言いたいんだ」
彼が不機嫌そうに問いかけてくる。
その迫力に臆することもなく、は口を開く。
「料理がうまいだなんて、普通じゃないじゃないですか!
やっぱり異世界から来たんですよ」
そしてその世界は男女の役割が正反対なのだ、と思ったままを告げる。
白龍の神子は剣を持って怨霊と戦うという。
それならつじつまが合う気がした。
だがヒノエはその推測を一蹴する。
「何言ってんだ、阿呆。
百歩譲って異世界から来たんだとしても、んな話があるわけねえだろ」
うっ、と言葉を詰まらせる。
「で、でも、異世界からきたのは本当ですよ!」
「確証は?」
「お餅がおいしかったからです!!」
握り拳を作って言うと、彼は大きくため息をつく。
「それのどこが確証なんだ」
「だって、とっても甘くておいしかったんですよ!?
今まで一度も食べたことない味でした!!」
力説するものの、一向に伝わる気配はなかった。
「んで、なんでお前が譲の作った餅の味なんか知ってんだよ」
言われて、初めて自分が失言をしたことに気がついた。
まずい。
思わず両手で口をふさぐ。
けれどそれでヒノエが許してくれるはずもなかった。
「九郎と望美の仲の悪さや、譲の怪我。
ずいぶん細かく調べられてるじゃねえか。
どうやったんだ?」
訊かれては答えるしかないは、観念する。
「呆れないでくれますか?」
「話によるな」
ここまできたら腹をくくろう、と一つ息をはいてから話を始める。
「そのですね?
梶原邸の西門の前を見張ってたんですよ。
人が出てきたら情報を聞きだそうと思いまして。
それで、しばらくしたら若い男の人が出てきたんで追おうとしたら、それが譲さんだったんです」
『譲さん』と言ったときにヒノエがぴくりと反応したが、は気にせず続ける。
「さすがに本人に訊くわけにはいかないなと思って、追いかけるのはやめようと……した、んですけど……」
恥ずかしくて、口ごもってしまう。
けれど彼の目が『言え』とばかりにこちらを見ている。
「その、えっと〜。
思いっきり、転けちゃったんです」
ご丁寧に悲鳴まで上げて。
「そしたら譲さんが助け起こしてくれて、そのまま膝のすり傷の手当てまでしてもらっちゃったんです」
恥ずかしすぎてうつむいたままでいると、ヒノエのため息が聞こえてくる。
絶対に、呆れられた。
穴があったらもぐりたいとはこのことだ。
「で、餌づけされてきたんだな」
「うっ……はい」
図星をさされて、少女はさらに縮こまる。
彼の言葉にとげがあるように感じたのは、自分のいたらなさが原因なのだろう。
ヒノエがもう一度息をつく。
「まあ、いい。
そのおかげで新しい情報も入ったしな。
餌づけされっぱなしだったわけじゃなく、話を聞きだしたのはお前の手柄だ」
ぽんっと、頭に手を乗せられる。
「良くがんばったな、」
温かい手のひらに、不覚にも泣きたくなった。
彼の優しさが心に染み入る。
この二日の思いをすべてはき出したくなった。
神子たちと行ってしまう後ろ姿を見ているのがつらかったこと。
ヒノエがいなくてとても胸が痛かったこと。
不思議な喪失感にさいなまれていたこと。
一緒にいられるだけで、こんなにも心が満たされるということ――。
だめだ、とすんでのところで思いとどまる。
それでは彼に迷惑をかけてしまう。
それはの望むことではない。
ヒノエの願いを叶えたい。
そのためにがんばろうと決めたのだから。
少女は顔を上げ、笑顔で口を開く。
「ヒノエさま、とってもおいしいお菓子があるんですよ♪」
お茶を入れますから、食べてください! とわざと明るく言う。
「ああ、あのときのか」
覚えていたことには驚く。
それが顔に出ていたのか、ヒノエは、
「食い意地がはってんだなって思ったからな」
と、にやりと口の端を上げる。
少女も自然と笑みがこぼれた。
茶を入れ、菓子を出して彼が食べるのをじっと待つ。
男にしては細い指が菓子を取り、口に運ぶ。
「ん、うまいな」
その言葉には満面の笑みを浮かべた。
聞きたかった言葉。
見たかった笑顔。
叶った小さな願い。
彼といると幸せが増えていく。
ずっと一緒にいたい、と新たな望みができたことに、少女は首をかしげる。
そんなことは烏として願ってはいけないこと。
主を束縛するなどもってのほかだ。
は想いをそっと心の中にしまい込む。
「お前は食わないのか?」
問われて、少女は目を丸くする。
「私ですか!?
え、だって、ヒノエさまにって取っておいたから……」
あわてて思いきり手を振り遠慮してみるが、彼はの顔の前まで菓子を持ってくる。
「ほら。口、開けろ」
優しい声に、少し逡巡した後、素直に言われたとおりにする。
口の中に菓子が入ってくる。
それは昨日よりも数段おいしく感じられた。
結局、ヒノエが面白がって動物に餌をやるようにに食べさせたため、半分以上が少女の口に入ってしまった。
これでは意味がない、とは思ったが、始終彼が笑顔でいたため、そんな考えも吹っ飛んだ。
はヒノエが良ければそれでいいのだから。
彼がいるだけで笑顔になれる。
それが一つの望みであることに、少女はやっと気づき始めた。
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別当殿、餌づけの回。
甘やかされたいんです!
切なさも、もちろん忘れずに。
(2006/12/22)