一六幕 不変




 寒い。
 ここはどこだろう?
 狭いところを通り抜けるような風の音だけがする。
 何も見えない。誰もいない。

 一人、だ。

 怖い。独りは嫌。
 誰か来て。
 置いていかないで。
 さびしい、から。
 誰か、誰か。
 いつも一緒にいてくれた大切な人の名前が、出てこない。
 ついていきたくて、必死で追った背中。
 優しくて強くて、一等大切な。
 頭に乗せられた手のひらのぬくもりは覚えているのに。
 名前だけが、分からない。


 ……?
 あったかい。
 何だろう?
 手が包み込まれているように温かい。

 誰?

 振り返っても何もない。
 けれどかすかに感じた気配は彼の人のもの。
 姿の見えない大切な誰か。
 その正体が分からず、は困ったように眉を下げる。
 手のぬくもりに若干落ち着いたものの、ずっとここにいるのは嫌だった。
 彼方の風音は心細さを助長する。
 知らぬ間に組み合わせていた両手は小刻みに震えていた。
 早く抜け出したい。
 独りでは不安になるから。
 また、置いていかれるのではないかと。
 彼は一人ですべてを背負い込んでしまうから。

 唐突に、手に感じていたぬくもりが消えた。
 途惑う少女の耳に届いたのは、水の音。
 どこから?
 遠くから聞こえる。
 行ってみようか。
 そうすれば、一人ではなくなるかもしれない。
 でも、どうやって?
 体が思うように動かない。
 寒さに手足がかじかむ。心の底から凍えてしまいそうだった。
 行動できないならと、五感を研ぎ澄ませる。
 どうやら、水の音と風が吹いている場所は同じところのようだ。
 瞼を閉じて、一所に感覚を集中させる。
 音がだんだんと近づいてきている気がした。

 ふと、意識が揺らぐ。
 それは定まらぬまま、どんどん飲まれていく。
 最奥へと――。



 まず瞳に映ったのは、見知った木目だった。
 ここは鳴と住んでいる隠れ家だ。
 そう認識してから、緩慢な動作で首をめぐらす。
 かすんだ視界の中で存在感を放つは、紅。
「ヒ、ノエ、さま……?」
「ああ、起きたのか」
 待ち望んでいた、彼だ。
 やっと、思い出せた。
 そのことに安堵の息をはく。
「大丈夫か?」
 心配そうに覗き込んでくる。
 は訳が分からずに首をかしげようとする。
 実際には、わずかに動いただけだった。
 頭が重い。
 寒いのは相変わらずで、吐き気もする。
 そこで初めて気づく。
 自分が風邪を引いたのだ、ということに。
 おまけに熱まで出して。
 だからあのような夢を見たのかもしれない。
 風が吹いていると感じたのは、自らの荒い息。
 ぬくもりは、きっと彼が手を握ってくれていたのだろう。
 水音は、ヒノエが手ぬぐいを濡らしてくれていた音。
 うまく働かない頭でそこまで理解すると、今度は疑問が浮かび上がってくる。

「どうして、ここにいるん、ですか?」
 彼は神子たちと共に行動していたはずだ。
 今日は報告をする日ではない。
 不思議に思い尋ねると、ヒノエは苦もなく答えた。
「鳴がすっ飛んで来たんだ。
 お前が熱出して、……寝言でオレを呼んでるってな」
 あいつもとことんお前に甘いよな、と軽く笑う。
 そうか、彼女が。
 また迷惑をかけてしまった。
 鳴のことだから気にしないと言うのだろうが、後でお礼くらいはしたいと思った。
 そして彼にも、とは笑顔を浮かべる。
「来てくれて、ありがとう……ござい、ます」
 いまだ整わない呼吸に途切れ途切れになりながらも、伝える。
 ヒノエは、ああ、と頷いて優しく頭をなでてくれる。
 温かい。
 一人ではないのだ、という安心感が胸を満たす。
 夢の中では誰もいなかった。
 けれど目を覚ませば彼はいた。
 ヒノエは決して熊野を、熊野の民を見捨てない。
 言うまでもなくそこには自分も含まれている。
 それが嬉しい。
 彼がいる限りは、少女は一人にならずにすむのだから。

 …………?

 ああ。
 そういうことだったのか。
 ヒノエを想う理由が今、分かった。
 一人を嫌うは、間違いなく一緒にいてくれる人を選んでいたのだ。
 彼も、鳴も。
 だから、力になりたいと思っていた。
 もっと優しくしてくれるように。
 もっと傍にいてくれるように。
 利用していたのだ。
 独りになりたくはないからと。
 その事実が、幼い少女を苦しめる。
「どうかしたか?」
 怪訝そうな声にさまよわせていた視線を戻すと、至近距離に顔があった。
 眉を寄せて、心配そうに面をゆがませて。
 心から気づかってくれているのだ、と分かった。
 そっと頬にふれてきた手は、冷たくて気持ちがいい。
 心地良さには瞳を伏せる。
 ふと、子どものころを思い出す。
 数年前までは、冬の終わる時期に良く風邪を引いていた。
 そんなときは決まってヒノエが見舞いに来てくれたのだ。
 病がうつってしまうから近寄らない方がいいと言った自分に、「大丈夫だ」と頑として譲らなかった少年。
 昔と変わらない彼に、思わず笑みをこぼす。

「今は休んどけ。
 ずっとついててやるから」
 優しく囁かれる。
 いつまでも聞いていたいと思わせる声だった。
「ずっと、ですか?」
 そんなに長い間、あちらを留守にしてもいいのだろうか。
 だがヒノエはあっさりと肯定する。
「今日中には帰れないって言ってきたからな。
 心配すんな」
 少女の額の汗で張りついた髪をかきあげ、頭に手を置く。
 その声に、そのぬくもりにすっかり安心して、は眠りについた。
 本当にずーっと一緒ならいいのに、と考えながら。


 ******


「はあ……」
 残された少年は大きくため息をはく。
 最悪だ。
 なぜこんなことに、と考えてみても、原因は自分にあるとしか思えなかった。
 無理をさせていたのだろう。
 具合を悪くしてしまうほどまでに。
 このオレとしたことが、と頭を抱えたくなる。
 はこんなにも弱いのに。
 自分が守らなければならないのに。
 今さらになって、後悔が神経をむしばむ。
 なぜ、白龍の神子と接触させるなどと無茶を頼んだのだろう。
 弁慶をはめるために、利用した。
 烏は熊野に仕えるもの。身勝手な理由によって動かしてはいけないのに。
 彼女が倒れてやっとそのことに気がつかされた。
 正確には、鳴に『あの子はあなたの私物ではありません』と断言されてから、初めて。
 いや、頭では分かっていたのに、感情がついていけてなかったのだ。

 自然とまた、重い吐息がこぼれた。
 この少女はがんばりすぎるきらいがある。
 普段は素直に何でも話すが、絶対に弱音ははかない。
 すべて小さな身の内にため込んでしまう。
 今回は表に現れたが、そうでなければ頑固なは一生甘えてこなかっただろう。
 その未来を予想して、ヒノエは顔をしかめる。
 自分の前では、つらいことも悲しいことも、全部さらけ出してほしい。
 熊野別当である以上は、叶わないと知ってはいても……。
 慕ってくれるのは、自分が主だから。
 分かっているし、それでもいいと思っていた。
 ヒノエには敵が多いから。
 信頼できる部下は、実はそんなにいないから。
 別当の任を継いだとき、辞めていった者は少なくはなかった。
 そこまではいかないまでも、落胆の色は確かにあった。
 本宮大社に勤める者にも、熊野水軍の中でも。
 息子のように可愛がってくれた奴もいたことにはいたが。
 その中で、ただ純粋な好意を寄せてくれる少女の存在は救いだった。
 彼女は知らないだろうが、あの先代の懐刀の一人娘がつくのなら……という裏の動きもあったのだ。
 正直、ありがたかった。
 駆け引きの道具としてだけではなくて、一生懸命に後を追ってくる姿に安堵していた。
 それと同時に保護欲をかき立てられ、熊野の民でもあるのだからと理由をつけて、何かと手助けをした。
 その所為がの忠誠心にさらに火をそそぐことになると薄々気づいてはいたが。

 いつだって少女は、ヒノエを守ろうとする。
 役に立ちたいと、無垢な琥珀の瞳でまっすぐ見つめてきて、言うのだ。
 京への道のりで、がんばると告げた声音は真剣そのものだった。
 白龍の神子の話では、ヒノエが傷つくのが嫌なのだと心から叫んでいた。
 怨霊の気配を感じたときは無意識にか、彼を背にかばうような体制を取った。
 守りたいと思っているのに。
 守ろうと気にかけているのに。
 実際に守られているのは、自分の方ではないか?

「……ん、ううっ……」
 思考の底に沈んでいたヒノエは、突然うめきだしたに我に返った。
「平気か?」
 起きているかは分からなかったが、反射的に小声で問う。
 少女は空に手を伸ばす。
 まるで何かを求めているかのように。
 その手を彼は両の手で包み込む。
 宝物を扱うようにそっと握ると、も少しだけ握り返してきた。
 表情も先程と比べると幾分かましになっており、ヒノエはほっと息をはく。
 そういえば、昔も少女が風邪を引いたときなどはこうして手をつないでいたものだ、と思い出す。
 病がうつると面倒だから会うな、という湛快や雁堆の言葉を無視して。
 元服前の気軽さで、こっそりと忍び込んで、そのうち一緒に寝てしまうこともあった。
 変わらないのは、手のぬくもり。
 今も昔も同じだった。
 不変なものがあることに彼は目元を和ませる。
 変わったのは、手の大きさ。
 人より小柄なの手は、やはり小さい。
 自分の手で簡単に包み隠せてしまうのだ。
 時は確実に二人の間を流れている。
 それを寂しいと感じるのはなぜだろうか?
 やがて巣立つだろう雛を惜しんでいるのかもしれない。
 今度は自嘲の笑みがもれる。
 自由を愛する熊野の民らしくもない考えだ。
 大空に羽ばたきゆく鶯をつなぎとめることなど、できようはずもないというのに。

 雑念を追い出すように首を左右に振る。
 昔からそうだった。
 のこととなると、途端に調子が狂うのだ。
 寝込んだ時に必ず様子を見に行っていたのは、心配でじっとしていられなかったからなのだと、目の前の少女はきっと知らない。

 青白い顔を見つめ、眉をひそめる。
 確か病の穢れを祓うまじないがあったはずだ。
 どんなものだっただろうか。
 ヒノエは首をひねって考えこむ。
 こんなとき、少女の記憶力が羨ましくなる。
 きっと一語一句間違うことなく、簡単に思い出せてしまうのだろう。
 その能力は情報を扱う烏には欠かせないものだ。
 才能がないわけない。
 は良く役立たずだと言うが、そんなことはないのだ。
 少女が己の力量を計りきれていないだけ。
 烏としても人としても、自分にとって大切な存在。
 だからこそ、今こんなにも悩んでいるというのに。
 なんとしても症状を軽くしてやりたい。
 記憶の断片を頼りに二言三言、呟く。
 唱え終わると、握っている手の上に小指の先ほどの小さな輝きが現れる。
 それはすぐに消えるが、おかげでの顔色がだいぶ良くなった。
 少年は満足げな笑みをこぼす。
 色々と興味を持って調べていたことも、少しは役に立ったらしい。


 寝顔を眺めながら、思う。
 ただ、笑顔でいてほしいのだ。
 熊野に住む誰もが笑みを絶やさない、平和な世。
 かたわらの少女も顔一面に喜色を浮かべているような。
 守りたいのだ。
 熊野を。熊野の民を。を。
 だからヒノエは、神子と共に戦う。
 それともう一つ理由があることに、彼は気づかぬふりをした。
 両立は不可能だと思ったから。

 今はこの少女に、安らかな休息を。
 そう願うことしか、このときはできなかった。
 ヒノエは少し力を込めて小さな手を握った。



 きっと、きっと、願いは同じ。
 守りたいもののため。今も昔も変わらぬ思い。
 それこそが、ただ一つの祈りとなる。








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 無理しすぎて、ついに熱出しちゃいました。
 そんなまじないがあるのかどうか、調べたものの良く分かってません(笑)
 加持祈祷と同じ部類ってことで!!
(2007/5/22)