一七幕 二人




 暖かい。
 何かに包まれているような心地がする。
 これは、夢だ。
 そのことがはっきりと分かる。
 きっと、彼がいるから暖かいのだ。
 心が満たされているから。
 起きるまでずっと一緒にいてくれる、と言っていた。
 それなら、このまま目覚めないのも幸せかもしれない。
 ぬくもりを感じながら、そんなことを思う。
 けれどやはり、自分は起きてしまうのだろう。
 彼に会いたくて。
 笑顔が見たくなって。
 頭をなでてもらいたくなって。
 会えない間がどんなに寂しくても、現実の方がいい。
 共にいる喜び。
 役に立てる幸せ。
 それは現世にあるから。

 いつからだっただろう?
 こんなに依存するようになったのは――。


 突如、何もなかった空間に、ぼうっと二つの人影が浮かび上がる。
 大きな木の下、幼い少女がうずくまっていた。
 小刻みに震えて、必死に何かを耐えているようだ。
 あれは、過ぎし日の自分。
 五歳のとき。熊野に珍しく雪が降った日の早朝。
 大切にしまわれていた過去の記憶が、色を成してそこに存在していた。

「……
 今よりも高い声で、控えめに彼女の名を呼ぶ。
「伯母さまが、亡くなりました」
 ぽつりと、少女がこぼす。
 声は少壮しきったようにかすれていた。
「ああ」
 彼はすべて知っているらしく、頷く。
 何を言えばいいのか、と考えるように眉をひそめ、押し黙っていた。
 夢として見て、初めて気がつく。
 本当にを心配してくれていることに。
「私、一人になっちゃいました」
 このときの自分は泣いていただろうか?
 涙も忘れるくらい、絶望していたような気がする。
 今になって考えてみると、不思議だ。
 伯母がいなくなったからといって、一人であるわけはないのに。
 父も母も可愛がってくれる烏の皆も、……彼も、いる。
 けれど、それが見えていなかったのだろう。
 仕事の忙しい父。父の世話に家事に忙しい母。自然とは伯母に預けられることが多かった。
 柔和な笑みをたたえた、穏やかな女性。
 良く懐いていたな、と思い返す。

「オレがいるじゃねえか」

 そうだ、ヒノエは言ってくれた。
 少女の頭を優しくなでながら。
 は笑みを浮かべる。
 絶望していた自分に見えた、一筋の光。
 少女はのろのろと顔を上げる。
 うつろな双眸はそれでも、彼を映していた。
「お前は一人じゃない。
 オレが絶対、一人にしない!」
 茶色の瞳に生気が戻ってくる。
 力強く断言した少年は、この時スサノオに見えたのだ。
 彼になら、ついていける。
 そう思ったのだ。

 ああ、この瞬間だ。
 彼ならを一人にしないと確信したのは。
 彼を好きになったのは。
 このときから、依存するようになったのだ。

 風が粉雪を巻き上げ、深緑の葉を繁らせた大樹に見守られていた二人を覆い隠す。
 それと同時に今まで広がっていた景色がすべて消えていく。
 もう、起きる頃合いなのだろうか。
 だんだんと意識が沈んでいく。
 少女はそっと目を伏せた。
 次に見るのは彼の顔だと、嬉しい。



 すー、と風のような音がする。
 ぱちりと目を開くと、音の聞こえる上を向く。
 するとヒノエの顔がすぐ近くにある。
 ?
 どういうことだろう?
 音の正体は彼の寝息のようだ。
 規則正しく上下する胸は、横向きに寝ている少女の目の前。
 手と手をつないでいて、少年のもう片方の手はの頭の下に……。
 気づいた瞬間がばっと飛び起きる。
 いきなりの衝撃に頭痛がしたが、そんなことは気にしていられなかった。

「……ん、目ぇ覚めたか」
 この状況で目が覚めないはずがない。
 どうしてあんな体勢だったのか訊きたかったが、うまく言葉が出てこなかった。
「な、あっ、わ……すみません!!」
 やっと言えたのは、それだけだった。
 大声を出して喉が痛かったが、そんなことはどうでも良かった。
「何がだ?」
 不思議そうにこちらを見上げてくる。
 いつもと違う目線に、余計に恥ずかしさが増す。
「だ、だって、腕枕してもらってましたし!」
「あれはオレが勝手にやったんだ」
「手だってつないでもらっちゃってて!」
「それもオレだ」
「でも、その……」
 それ以上はどう言えばいいのか分からず、うつむく。
 風邪のせいだけではない、顔の熱。
 体を起こしたらしいヒノエに頭を軽く叩かれる。
「お前は必要ないときまで謝る癖がある。
 今は何にもしてねえだろ」
 優しく、そう言ってくれる。
 自分は彼を利用していたのに。
 一人になりたくはないから、と。
 それでも変わらず、優しくしてくれる。
「……ありがとう、ございます」
 二重の意味を込めて、頭を下げる。
「それでいい」
 顔を上げると、ヒノエは明るく笑っていた。
 そのことに安心して少女も笑みを返す。

「で、今日はどうすんだ?」
 一瞬、意味を取りかねる。
 そして、あっ! と声を上げる。
「京邸に行く日です!」
 両手を合わせて、そうでした、と呟く。
 今日は白龍の神子と遊ぶ約束をした日だった。
「けど、外出禁止な」
「ええっ!?」
 それでは行くことができない、と目線で訴えるが、逆にねめつけられる。
「当たり前だろ。
 お前は病人なんだ」
 うっ、と言葉を詰まらせる。
 確かにまだ喉が痛くて、頭痛もする。
 吐き気はだいぶ治まったが、熱も少しあるみたいだ。
 万全とは言いがたかった。
「神子さまにうつしちゃったら大変ですもんね……」
 彼女が苦しむ姿なんて見たくはない。
 けれどその可能性もあるのだから、行くのはやめた方がいいのかもしれない。

「お前が心配なんだっ!!」
 うなだれていた少女にヒノエが語気を強めて言った。
 は瞳を瞬かせて、心の中で反芻する。
 『お前が心配』?
 喜びに頬がゆるむ。
 優しい彼は、自分のことまで気づかってくれたのだ。
「ありがとうございます。
 じゃあ、今日一日はゆっくり休んでます!」
 少女は笑顔でそう告げる。
 ああ、とヒノエはぶっきらぼうに返事をした。
 照れているのだろう、顔をそむけて彼は口を開く。
「言伝があれば、オレが聞いてやる。
 たまたま通りかかって頼まれたことにすればいいだろ。
 一応、顔は知ってる仲ってことになってるしな」
 十数日前に、京邸で二人は顔を合わしていた。
 神子たちはそれが初対面だと思っているだろう。
 事実と食い違う偽りがやはり悲しい。
「風邪引いて行けなくなってしまいました。どうもすみません。
 って、伝えてもらえますか?」
 苦笑しながら言う。
 嫌だと思っても現実は変わらないのだ。
「分かった」
 頷いて、そのまま黙りこむ。
 じっとこちらを見つめてくる視線には動けなくなる。
 どうかしたのだろうか?

「……

 唐突に低い声で烏名を呼ばれ、自然と背筋を伸ばした。
「は、はい!」
 あわてて返事をする。
「つらいか?」
 いきなり尋ねられた言葉は、なんとも分かりにくいものだった。
 少女は意味が読めず首をかしげる。
「何が、ですか?」
 疑問を口にしてしまう。
 にはヒノエの方がつらそうに見える。
 苦しそうに顔をゆがめて、何かを悔やんでいるようだ。
 後悔、している?
「嘘ついてるのは、つらいか」
 たった一言で、胸を突かれたような心地がした。
 あの罪悪感がよみがえってくる。

「それは……つらくないとは言えません。
 けど、私、ヒノエさまの役に立てることが一番嬉しいんです。
 そのためなら、どんなにつらくても耐えられます」
 少女は言いきる。
 これだけは己の偽らざる心だった。
「お前がそういうヤツだから……」
 呟き、言い終える前にうつむいてしまう。
 機嫌をそこねるようなことを言ってしまったのだろうか?
 困惑していると、ふいに手が伸びてきた。
 肩を勢い良く引き寄せられ少年の胸の中へと収まる。
 かすかにする潮の香りに、自分が抱きしめられていることを知った。
「あ、あのっ!」
 離れようとするが力強い腕がそれを許さない。
 ヒノエを傷つけてまで逃れることなど始めから頭になかったは、すぐに抵抗を諦めた。

「お前は、無理しすぎだ!
 ……少しくらいはオレを頼れよ」
 苦渋に満ちた声音で語る。
 こんなに心配をかけていたのだ、とようやく気づく。
「すみません」
「だから、謝るな!」
 申し訳なくなって詫びると、怒鳴られる。
 先ほども言われたことだった。
「はい、すみま……えと、あの……」
 反射的にまた謝ってしまい、どうしたらいいのか分からなくなってくる。
 いまだに熱が引いていないのか、思考が乱雑になっていた。
 慣れない態勢でいることも要因の一つなのだと、気づけるほど少女は大人ではない。
 混乱していた彼女の頭の上で、不意に笑い出す気配がした。

「なんっか、馬鹿馬鹿しくなってくんな、お前といると」
 腕の力を少しだけゆるめて、彼はそう口にする。
「何がですか?」
「心配してるとか言っても、その無鉄砲は直んないんだなって話だ」
 呆れたようでいて、どこか優しさの混じった声音だった。
 表情はうかがえないけれど、きっと苦笑しているのだろうとは思う。
「私、無鉄砲ですか?」
 不思議に感じて訊いてみる。
 思慮深いとは言わないが、それほど突飛な行動をしているつもりは一切なかった。
「いや、きっとオレが心配しすぎなだけなんだ」
 とため息をはいて、をそっと抱き直す。
 片手で少女の垂らされていた髪をもてあそび始めた。
 髪が首筋に当たるのがくすぐったくて、思わず笑みをもらす。

「けどもう、決めた。
 お前はオレが絶対に守る」

 その言葉に、目を合わせようと上を向く。
 真摯な光を灯した瞳と出会う。
 でも、と声を上げる。
「私はヒノエさまを守るんですよ?」
 ずっと、ずっと育ててきた望み。
 幼いころから、彼の役に立てるように、彼を守れるようにと思ってきた。
 いつかは片腕と呼ばれるくらいに。
 盾に剣になれるように。
 それが少女の見果てぬ夢。

「……ちょうどいいんじゃないか。
 一緒にいるってことには変わんねえしな」
 名案、とばかりに言うヒノエには目を丸くする。
「一緒に、いていいんですか?」
 邪魔ではないのだろうか。
 ずっと、利用していたというのに。
 そんな不安を彼は一笑する。
「当たり前だろ」
 一緒にいないでどうやって守るんだよ、と軽く髪を引っ張られる。
 そういえば、と自分の迂闊さに気づく。
 常に共にいなければ、意味がないではないか。
 けれど少女は一緒にいられるということが嬉しかったので、笑顔を浮かべた。

「とりあえず今は……鳴が帰ってくるまでいてやるよ」
 ヒノエの言葉には瞳をさらに輝かせる。
「だから、病人は寝てろ」
 つまりこの体制のまま寝ろということだろうか?
 少女に単衣をかけてはくれるが、腕を放す気はないようだ。
 彼に体を預けて、ぼうっとする。
 胸の中というのはとても気持ちいい。
 鼓動が潮騒のようで。ぬくもりが南風みたいで。
 熊野にいるときに似ている……と、故郷が懐かしくなる。
 ヒノエはあの霊山のように温かい。
 山に、海に、守られているような感覚。
 幸福。
 確かに存在しているそれに、身をゆだねる。

 それは少女が安らかな寝顔を見せる、ほんの数瞬前のこと。



 守ることのできる幸せ。
 ずっと一緒にいられるのだと、この時は心から信じていた。








前へ / 目次 / 次へ


 ついに過去が明らかに! なんて、隠すようなもんでもないですね(笑)
 オリジナル設定満載な気がしますが、ここはもう開き直っちゃおうかと。
 ちゃんと二人が恋愛感情を抱くまでの過程みたいなものを書いていけたらな〜と思ってます。
(2007/9/11)