一八幕 問題




 鳴が帰ってきたのは昼過ぎごろだったらしい。
 らしい、というのは、そのときはぐっすりと寝ていたから。
 二人は少女を起こさないように数刻の間、静かにしてくれていたそうだ。
 その間に鳴は粥を作ってくれ、ヒノエはずっと傍にいてくれたらしい。
 これはすべて聞いた話。
 だから、彼の表情がいつもより和んでいたことや、それを見た鳴が密かにため息をついていたことなど、少女が知るはずもなかった。



「じゃ、オレは行くかんな」
 が目を覚まして少ししてから、ヒノエはそう言って立ち上がった。
 両手に持っていた碗を置いて、少年を仰ぎ見る。
 もう行ってしまうのかと寂しくなるが、まさかついていくわけにもいかない。
 起き上がれるようになったものの、熱はまだ高い。
 そのため外出は禁止されてしまったのだから。
 彼に言伝を頼んであるのだから、行かないというのも無理だろう。
「ちゃんと寝てるんだぞ」
 そう言う声はどこまでも優しい。
 ヒノエはずっと一緒だと約束をしてくれた。
 起きるまで傍にいてくれた。
 これ以上は望んではいけないと分かっている。
 けれど、やはり寂しい。
 きっと風邪のせいだけではなく、自分の心が弱いからだ。
 甘えたくなる。
 彼が優しければ優しいほど。
 もっといてほしいと、わがままを言いたくなる。
 それは駄目だ、とは無理に笑った。
「はい。分かりました」
 寝ていることは苦ではない。
 ヒノエがいなくなることがつらいだけだ。
 鳴もいるし、一人ではない。
 それでも彼はいない。
 胸が痛むのは、どうしてなのか。今のには分からなかった。

「……またすぐに来てやるよ」
 願ってもない言葉に目を丸くする。
 いいのだろうか?
 ヒノエは苦笑を浮かべて、少女の頭をなでる。
「別に用事もないしな」
 は嬉しさに笑みをこぼす。
 少しでも、共に過ごすことができる。
 それだけで笑顔になれた。
 「オレも人のこと言えないな」という呟きが聞こえたように思えたが、気にせず彼を見送った。


 ******



 粥を食べ終わり、大人しく横になっていたとき、良く通る声に名を呼ばれる。
 上体を起こしてそちらを向けば、彼女は穏やかにを見ていた。
「ヒノエ様が、好き?」
「はい! 大好きです!!」
 唐突の問いに間髪いれずに答える。
 言う必要もないくらい、当たり前なことだった。
 ヒノエへの想いは少女の一部になっている。
 それを知りきっているはずの鳴は、なぜか悲しそうな顔をした。

「なら、いいの。
 あなたがそれでいいのなら」
 瞳を伏せ、突き放すような言葉を紡ぐ。
 穏やかさも優しさも感じられない冷たい声音。
 鳴は烏だ。
 少女の知らない面を、こうして垣間見せるときがある。
 そして、自分も烏の端くれ。
 彼女の言いたいことくらい、分かっていた。
 は小さな窓から覗く空を眺める。
 熊野で見た空よりも淡く、寂しげに見えた。
 故郷の景色を思い浮かべながら、烏と熊野別当の複雑な関係を思い出す。

 清浄な地を守るために烏があった。
 情報を司り、小さな火種も寄せ付けないようにと。
 そして数代前の熊野別当と手を結び、今がある。
 事実上は別当の配下でも、烏には熊野の神に仕えているという誇りがある。
『烏たる者 公平であれ。
 烏たる者 懸橋であれ』
 熊野を神に代わり治める者と、熊野に住む者たち。
 どちらにも片寄ることなく、双方の懸け橋となる。
 別当と手を結ぶときに作られた掟だ。

 今のは、明らかにヒノエに近すぎる。
 そう言いたいのだろう。
 少女自身、自覚していることでもあったし、烏の誰もが思っていたことだろう。
 今まで指摘されなかったのは、近くに雁堆の存在があったからかもしれない。

「鳴さんは誰の味方ですか?」
 は薄く笑んで、卑怯な訊き方をする。 
 烏としてではない彼女を知っているからこそできることだ。
 鳴は過去に雁堆に助けられたことがあり、それがきっかけで烏を目指した。
 彼女が烏になるずいぶん前からとも交流があって、半ば一緒に育ったようなものだ。
 自分をどれだけ大切に思ってくれているか、知っている。

「私は……あなたにつらい思いをしてほしくはないの」
 何の感情も映さなかった瞳が迷うように揺らぐ。
 問いの答えにはなっていないが、充分だった。
「それなら大丈夫です!」
 は笑顔で鳴の手を取り、黒曜石のような双眸を覗き込む。
「鳴さん。
 私、答えが分かったんですよ」
 ヒノエを想う理由。
 熱を出し、朦朧とした意識の中で気づいた。
 見返りを求めて彼を好きになったのだと。
 優しく温かく、けして見捨てない人だと知っていたから。
 熊野の民でもあり、幼なじみでもある自分を、けして独りにはしないだろうと。
「ヒノエさまみたいに、鳴さんもとっくに気づいてたと思うんですけど」
 そう言っては苦笑する。
 無意識の内に他ならぬ主を利用していたのだと、少女はとても苦しんだ。
 それでも。
 『お前はオレが守る』と。『一緒にいてもいい』と言ってくれたから。
 ヒノエはの気持ちを知っていて、受け入れてくれているのだと、理解した。
 許されたからと言って罪が消えるわけでも、軽くなるわけでもない。
 けれど、もう一つの真実にも気づけたから。
 変わらず彼を好きでいよう、と思えたのだった。

「私の主はヒノエさまです。
 これは絶対に、変わりません」

 始めはどうであれ、ヒノエの力になりたいと思う気持ちに嘘はない。
 に優しくしてくれる彼を、熊野のためにと尽力する彼を。
 影から支え、守りたい。
 いつも少年の肩を持つと告げられたとき、自分は『彼の烏だから』と言った。
 ――『熊野の烏』ではなく。
 そう返した時点で、もう答えは出ていたようなものだったのかもしれない。

「……後々、問題になるかもしれないわよ?」
 少女を心配してくれているのだろう、鳴の表情は硬い。
「ヒノエさまだから、大丈夫です」
 は断言した。
 彼はすでに何度も危機を乗り越えてきた。
 最たるものは代替えのときだ。
 湛快の突然の引退で動揺する部下を見事に治め、引き継いだ。
 烏の中でも見限るものがいたが、冷静に確実に熊野を導くヒノエを、最終的には認めざるをえなかった。
 もちろん前別当の配慮もあったし、雁堆の娘である己が味方についていたこともあるが。
 それでも全ては彼の実力と尽力によるものだ。
「今はちょっと難しいかもしれませんけど、何とかなると思うんです。
 熊野を大切に思う気持ちはおんなじなんですから」
 皆、守りたいだけなのだ。
 大切な、清浄な故郷をそのままの形で。
「そう、なればいいわね」
 硬かった表情をやっと緩め、希望を口にする。
「はい!」
 いつもの優しい鳴に戻ったことが嬉しくて、思わず元気に返事をした。
 皆の望む未来になればいい。
 平和で、争いが無く、幸せに暮らせる世。
 それが熊野だけに留まらなくなったのは、少女が外を知ったからなのだろう。
 熊野も、京も、どこでも。
 関係なく慈しむ心。
 大地に、森に、海に守られていたあの地にいただけでは、得られなかった感情だった。

「ヒノエさまなら、きっとやってくれますよ」

 が彼に向けるのは、絶対の信頼だ。
 あの人なら大丈夫。
 心からそう思えるのだ。
「……これでまだ気づいていないのだから、不思議なものね」
 呆れたような鳴の聞こえるか聞こえないかくらいの呟きに、首をかしげる。
「? 何のことですか?」
「いえ、こっちの話よ」
 そう言われてしまっては、深く問うことはできない。
 はぐらかされるだけだと分かっているから。
 烏としての実力の差が、こういうときに出てくる。
 はいまいち納得できないまま、ヒノエが戻ってくるのを心待ちにするしかないのだった。


 半刻もしない内にヒノエが訪れ、微妙な空気はかき消されたかに思えた。
 果物の土産には瞳を輝かせて喜び、笑顔でお礼を言う。
 食べやすいようにと切り分けてくれた鳴は、普段通りの笑みをたたえていた。
 瑞々しい果実を頬張りながらも少女は思いを巡らす。
 言葉にならなかった彼女の本心を。
 言葉にできなかった彼女の胸中を。



 ただ考えるだけで分かるはずはないけれど。
 それでもなぜかあの眼差しが気になって、答えを探していた。








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 ずっと書きたかったところだけに、推敲の回数が半端じゃありませんでした。
 展開も二転三転するし、もう難しい話は当分書きたくない……。
 ようは、本当は烏は別当の部下じゃないんだよ。でもヒロインはヒノエを主と仰いでるんだよ。ってことです。
(2009/2/5)