一九幕 談話
それから日が経つにつれて、体調はだんだんと回復していった。
熱は二日で下がり、ずっと悩まされていた頭痛も一昨日の昼にはなくなっていた。
昨日は様子見ということで外に出してはもらえなかったが、今日はやっと許しが出た。
京に来てから毎日していた早朝の散歩がてらの調査。
上機嫌で法住寺の方まで足を運んでいく。
「外ってこんなに気持ち良かったんですね」
まだ行き交う人もまばらな通りを歩みながら、は呟く。
初夏の季候を肌で感じ、自然と頬がゆるんだ。
爽やかな朝の風を受けても、寒気はしない。
眩しい空を見上げても、頭は痛くならない。
この調子なら、明日にも京邸に行けるだろうか。
きっと喜んでくれるであろう神子の笑顔を思い出して、は笑みをこぼす。
明るく優しい彼女と一緒にいられるのは嬉しかった。
たとえ騙しているのだとしても、たとえ偽りの関係だとしても。
少女の大切な存在になっていた。
だから、遊びに行けることを何よりも楽しみにしていたのだった。
******
明後日。
昨日は大事を取って休養するようヒノエに言われてしまったため、京邸に行くことは叶わなかった。
ようやく許しの出た今日こそ、は彼女らに会いに行こうと心に決めていた。
「じゃあ、行ってきますね!」
朝早くから押しかけることは迷惑だろうからと、太陽が中天に昇ったころに勢い良く立ち上がる。
待ちきれないとばかりにそわそわとした雰囲気がただよっていた。
「ええ、行ってらっしゃい、。
気をつけてね?」
そんな少女に笑みをこぼした鳴は、それでも気遣わしい視線を投げかけてくる。
「もう大丈夫です!!」
両手を振り上げ、風邪は全快したのだと伝えようとする。
ここ数日は気分も良かったし、どこにも以上はない。
もう絶対に平気なのだと、自分の体調をかえりみて判断したのだから。
「なら心配ないわね」
くすくすと声をもらし、今度こそ朗らかな笑顔を浮かべてくれた。
それに少女も笑みを返してから戸に手をかける。
「――あ、鳴さん」
力を入れて開こうとしたとき、あることを思い出して振り返った。
まだ、大切なことを言っていなかった。
「何かしら?」
穏やかな瞳は、が話し出すのを急かすことなく待ってくれていた。
「私、鳴さんのことも大好きですからね。
それだけは覚えておいてください」
烏と別当との間で、少女が苦しまないかと心配をしてくれた女性。
幼いころからずっと世話になってきて、甘えさせてくれて、頼りにしていた人。
ヒノエが好きで、熊野が好きで。それと少し種類は違うかもしれないけれど、鳴のことも大好きなのだ。
のことを自分のことのように考えてくれる優しい彼女が。
そのことだけは、忘れないでいてほしかった。
「……そう、ありがとう」
一瞬だけ驚いたような顔をした後、すぐに心からの笑みを向けてくれた。
「大好きですから!」
はもう一度元気に告げて、隠れ家を後にした。
誰もが笑い合い、騙し騙されることのない地を、彼なら作っていけるだろう。
少女と他の烏との間にあるわずかばかりの壁も、いつかは風化していくだろう。
鳴もそう信じていてくれたらいいと、は思った。
京邸に入ると、すぐに望美が駆けつけてきた。
「、大丈夫だった!?」
『いらっしゃい』よりも先に問われた言葉。
予想していたものだったから、安心させるように微笑みを向ける。
「はい。おかげさまで、もうすっかり」
が答えると、彼女は全身の力を抜いて、良かった、と呟いた。
ずっと心配してくれていたのだろう。
約束の日なのに来ないと待ってくれ、ヒノエから言伝を話され驚いて。
彼に聞いた話と望美の反応が少女を喜ばせる。
たとえ同情であろうと、自分に向けられている好意を感じられるから。
だからも、素直で清らかな彼女を実の姉のように慕っていた。
「ねえ。ヒノエくんのことどう思った?」
朔や白龍も加わって、和やかに会話を楽しんでいたとき。
望美は朔と視線を交わした後、なぜか真剣な面持ちで尋ねてきた。
今回の件はヒノエが外を出歩いていたときに、熱を出しながらも京邸に行こうとしていたを見つけた。ということになっているのだと彼から聞いていた。
初対面ではないし、ヒノエが女の顔を忘れるはずがないと思っているらしく、簡単に納得してくれたそうだ。
「えっと、あの髪の赤い人のことですよね?
格好いい人だな、と」
あまり親しくない人ならどう感じるのだろうか。
そう考えながら妥当な感想を述べる。
「ええ〜!!? 、ああいうのが好みなの!?」
急に大声を出した望美に目を丸くする。
何か間違ったことを言ってしまっただろうか?
判断材料の少ないこの状況では、わけが分からない。
「の、望美さん?」
困ったように名前を呼べば、彼女は人指し指を立てる。
「だって、カッコいいって言うなら、リズ先生とか九郎さんとかじゃない?
優しそうなら景時さんで、譲くんは頭が良さそう、かな。
ヒノエくんは、親しみやすそうとか……悪く言うと軽そうって感じ」
つらつらと意見を並べていく望美に、は己の間違いを悟った。
彼女の目は正しい。一般的なものだ。
自分の基準が、おかしかった。
何をおいてもヒノエ。ヒノエが物事の中心。
それが、少女には当たり前だった。
だからヒノエが格好良く、優しく、頭が良く。
どれも彼が判断基準になっていたのだ。
「好みと言うか、何となくですけど。
確かにリズヴァーンさんや九郎さんの方が男らしいですよね」
ごまかすために、思ってもいないことを口にする。
時には嘘も方便だと、烏であるは骨身にしみていた。
「でしょでしょ?
騙されちゃダメだからね、!
ヒノエくんは女の子の天敵だからっ!!」
納得してくれたらしい望美は、なおも言い募る。
彼女の隣にいた朔は、ただ困ったような笑みをこぼしていた。
「そうなんですか?」
言わんとしていることはそれなりに分かったが、あえて首をかしげて訊いてみる。
「うん。女なら誰にだって声をかけるの。
確かに優しくしてくれるのはいいんだけど、ヒノエくんの場合はやりすぎというか……」
「そうね、彼はもう少しひかえるべきだと思うわ」
腕を組んで眉をひそめた望美の言葉に、今度は朔までが同意を示す。
は『』として苦笑をもらした。
額面どおりに受け取ってしまえば、主は神子に信用されていない。ということになるのだろう。
八葉として、それはとても悲しいことだ。
けれど、二人の言葉の裏にあるものが『不満』ではないことくらい、烏でなかったとしても気づけるようなもの。
辛辣な言葉選びは、気兼ねしていないが故。
戸惑いと苦手意識を、不満の形にして語っているに過ぎない。
仲間に変な遠慮などはいらないのだから。
望美も、朔も。ヒノエを八葉として受け入れ……信頼している。
何気ない会話からうかがえるほど絆が深いことに、少女は喜びを感じた。
「だからも気をつけてね?」
「どんなときだろうと油断しては駄目よ」
ずい、と身を乗り出して、冗談みたいなことを真剣な顔で二人は言う。
「分かりました」
半分以上が本気なのだろう彼女らに、若干押され気味に頷いた。
当惑しているような表情で。けれど内心では笑顔で。
優しい二人に心の中でだけお礼を言った。
「ヒノエくんって言えば、この間のことなんだけど」
と、望美はいきなり話題を変えた。
朔もも今度は彼女の方を向き、話を聞く体勢をとる。
今まで黙っていた白龍も、いつものように望美の顔を覗き込んで、次の言葉を待っていた。
「えっと、朔にはちょっと話したよね?
あの霊水のこと、実はね……」
望美は言葉を選びながら、一連の顛末を簡単に語る。
賭けで負け、遊びに連れて行ってもらってとても楽しかったこと。
最後に飲ませてもらった水が、朔に聞いたら有名な霊水だったこと。
お礼に行ったら、実は賭け自体に仕掛けがあったこと。
すべて話し終えて、ふうと息をついた望美を見ながら、は彼らしいとこっそり微苦笑した。
「……そういうことだったのね」
怒っているように聞こえる朔の言葉に、望美はまたため息をはく。
「ヒノエくんなりの優しさだってことは分かるんだよ?
でも、それならちゃんと言ってくれればいいと思うんだよね。
どうしてあんな回りくどいやり方しかできないんだろう?」
望美は困ったように首をかしげて考え始める。
言葉の端々から、ヒノエへの配慮が感じられる気がした。
苦言をこぼしているようでいて、本当に彼を嫌っているわけではないのだと分かる。
望美も朔も、仲間を嫌える人ではない。
龍神の神子がこの人たちで本当に良かった、と思った。
「優しくしてるんだって、知られたくないんじゃないんでしょうか?」
少し危険なことではあったけれど、答えまでの道を作る。
このままではヒノエの立場が微妙になってしまうということもあったが。
もっと、彼の良さを皆にも分かってほしかったから。
ヒノエがに話さなかったことが、最たる証拠だろうと思うのだ。
「私の幼なじみも、そういうところがあるんです。
素直じゃないって言うか、素直だけどひねくれているというか」
反則的な話し方だ、と自分で思った。
同一人物を別の側面から捉えて、違う人間を作り上げる。
よくある手ではあるけれど、彼女たちに使うとは考えていなかった。
「へぇ、そうなんだ」
特に不審には思わなかったようだ。
もっとも、そう思う要因もないのだから当然だが。
「あとでその人の優しさに気づくこととかも、たくさんあったんですよ」
いつもいつも、助けられてきた。
守るべきは、自分の方であるというのに。
気づいたときにはとっくのとうに助けられた後だったりして。
気づいたときにはその手を取らざるをえない状況であったりして。
彼は、さり気なく優しくできてしまうのだ。
「はその人のことが大好きなんだね」
少女の語り方がそう見えたのか、望美は柔らかな笑みを浮かべて言った。
「はい、大好きです!」
本心から、は答えた。
子どもの頃から、ずっとずっと、今現在も。
ヒノエのことが大好きだ。
飾ることのない真実で、大切な想いで、少女の一部。
何があろうと変わるはずがなかった。
「でも、ヒノエくんの場合もそうなのかなぁ」
望美はいまいち納得しない様子だ。
いや、何となくは彼女も気づいているのだろう。
見かけではなく、心根で。
神子は人を心眼で見ると聞いたことがある。
だからきっと、二人とも分かっているのだろう。
ずっと聞き役に回っていた白龍が、ちょいと望美の袂を引く。
三人が彼に目をやると、神託を告げるようにゆるりと音を紡いだ。
「ヒノエは、優しいよ。
八葉は皆、とても優しい。
私の神子はもっと優しい!」
少年の姿をした神は屈託のない笑顔で言い切った。
あどけなさの残る顔立ちは、しかし人間のものとは本質からして違う純真さがあった。
「……もう、白龍ったら」
一拍ほど目を見開いていた望美は、すぐに笑って白龍の頭をなでた。
朔もくすくすと声をもらす。
も笑みがこぼれたが、望美が一瞬だけ見せた途惑いの色がなぜか気になった。
彼女は優しい。
それは事実で、誰もが思っていて、そのおかげで自分は今ここにいられる。
なのに、どうしてあんな顔をしたのだろうか?
謝辞を素直に受け取れない理由があったのだろうか?
「神子が優しいから、すべて優しくなる。
朔も、も、優しいよ」
望美のことを考えていたは、続いた白龍の言葉で現実に引き戻された。
「私も……ですか?」
声は震えていたかもしれない。
それほど今の自分は、動揺している。
なぜ、と。
己はあなたを、あなたの神子を騙しているのに。
「は温かい気を持っている。
人なら誰もが持ってるものだけど、とても強くて、大きいよ」
まさに万人を許し万人を慈しむ、神の言葉だった。
白龍はどこまで知っている?
人ならざるものへの畏怖が、の中で再びふくらむ。
それはもう習性のようなもの。
神を信じ、神の御心のまま生きようとするものなら、神に背くことはできない。
「あっ……ありがとう、ございます」
少女には、それだけしか口にすることはできなかった。
どれだけつらいことか、分かっていて決意したつもりだったのに。
ふとした瞬間に訪れる悲しみとも苦しみとも取れない感情は、どうしようもできないのだろうか。
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くどいかもしれませんが、ヒロインは罪悪感でいっぱいなのです。
ヒノエこんにゃろー! と作者的には思ったりします(笑)
負い目なく神子たちと仲良くできる日が早く来るといいです。って早く書けって話だろ!
(2009/10/22)