二〇幕 記憶




 泣かない。というのはとても大変なことだった。
 多感な幼少期は特に。
 厳しい稽古。親しい人との別れ。諍い。すれ違い。
 嫌なことも悲しいこともたくさんあった。
 何度も涙を瞳にためて、今にもこぼしそうになって。
 それでも、ぎりぎりのところで耐えてきた。

 いつからか、泣かないために同じ行動をしていた。
 本宮からほど近い、川の側にぽつんと立っている大きな木の下。
 太い根に座り、幹に背中を預け、常緑を見上げる。
 “あの時”と同じ状況。ただ、上を向いていることだけが違う。
 ヒノエとの約束。ヒノエにかけてもらったまじない。
 解けてしまわないよう、泣きそうになるたび同じ場で、記憶をなぞった。

『大丈夫、泣かない。
 約束したから』

 そう、くり返しくり返し、自分に声をかけた。
 言葉には力が宿っている。
 ヒノエの言葉がの標となるように。
 自分の言葉で、自分にまじないをかけ続けてきた。



 泣きそう……なのだろうか。

 ここは六波羅。人通りのない小道を通って鳴と住む家に戻る最中。
 ふいに眼の奥が熱くなって、自らの思いを自覚する。
 神子を欺き続けていることが、どうしようもなくつらいのだと。
 悲しいわけではない。苦しいわけではない。
 あふれそうになる不可解な感情には困惑する。
 恐れ多さにも近い申し訳なさは確かにあるけれど、それだけではない。
 出会いがどんな形であっても、神子たちは変わらず優しくしてくれただろう。
 そう分かるから、悲しいわけではない。
 嘘をつくことへの罪悪感よりも、それによって得られる情報のほうが大事。
 烏として割り切れるから、苦しいわけではない。
 けれど、どんな理由があろうと、彼女たちを騙している事実は変わらない。
 それでも、少女が最優先すべきはヒノエだ。
 彼の烏であろうと決めたその時から、すでに覚悟は決めていた。
 決めていた、はずなのに。
 これはきっと、烏だからこその思い。
 “神”への畏怖。神を騙していることへの恐怖。
 胸が締めつけられるように痛む。
 目の奥から涙がせり上がってくるのを感じる。
 泣いてしまいそうなら、そうならないよう、また自分を言い聞かせなければ。

 ここは熊野ではない。
 あの、大きな木はここにはない。
 故郷ではないこの地で、は何を見上げて、涙を我慢すればいいのだろうか。
 何を見て、ヒノエとの約束を思い出せばいいのだろうか。

「……ちょっと寄り道しましょう」
 試しに言葉にしてみると、それは名案に思えた。
 地理をつかむのは烏として重要なことだし、気分転換にもなる。
 少しくらいなら帰るのが遅くなったところで鳴も心配はしないだろう。


******


「似てる……」
 ぽつりと呟いたのは、六波羅から少し逸れた、周囲に建物がほとんどない一帯だった。
 そこに、一本の木が健やかに枝を伸ばしていた。
 似ているといっても、それほど大きいわけではない。むしろ木としては小さい方だ。
 枝ぶりも、葉の形も、葉の厚みも、どれも少しずつ違う。
 けれど木の幹の風合いと、生い茂っている葉の色が、そっくりで。
 遠目から見たら、縮小版のように思えたのだ。
 思わぬ収穫に、はいつの間にか微笑んでいた。
 まだ熊野を離れて二月足らずなのに、ずいぶんと望郷の念にかられているようだ。
 似ているところよりも違いの方が目立つ木に、故郷の思い出の木を重ねて見てしまうほどに。

 はその木の下に腰を下ろした。
 木の幹に背中を預け、枝葉を見上げる。
 目に映る葉への距離がすでに違う。
 それでも、なんだか気が安らいでいくのを感じる。
 故郷と同じものがここにあるはずはない。
 熊野に存在するものは、熊野にしか存在しないからこそ、大切なのだ。
 似ているものがあったとしても、それは似ているだけで別物。
 それでいい。
 だから、は熊野が好きなのだから。

 泣きたい感覚は、少しずつ薄れていった。
 自然の香り。葉を揺らすかすかな風の音。枝葉の隙間からこぼれ落ちてくる日の光。
 そのすべてがを癒してくれているようだった。

「何やってんだ?」

 思いがけない声が聞こえて、は勢いよく立ち上がり、後ろを振り返った。
 そこにいたのはの主、ヒノエ。
 柘榴石のような瞳が不思議そうにを映している。
「ヒノエさま!」
「……珍しいな。
 声かけるまで気づかないなんて」
「すみません、ちょっとぼーっとしちゃってました」
 慌てて謝ると、ヒノエは小さくため息をついた。
 呆れた、だろうか?
 は烏だ。人の気配に敏くなくては務まらない。
 持ち直していた気持ちが、また下降していく。
 しっかりとしたい。ヒノエの役に立てる烏であれるように。
 思いだけが空回って、与えられた役目にすら雑念を抱く始末。
 本当に自分は何をやっているのだろう。
「なんて顔してんだよ」
 ヒノエが近づいてきて、ぐしゃりとの頭をかき回した。
 上で結んだ髪が少し崩れるくらいの強さで。
 それが彼なりの慰め方だと知っていたは、嬉しいような、切ないような気持ちで胸が熱くなった。

「大丈夫か?」
 心配そうにこちらを見てくる瞳。
 そこに自分が映っていることが、は嬉しかった。

「はい、大丈夫です」
 にこりと笑みを返せば、ヒノエはひとまず納得したようだった。
 表情は和らぎ、口は弧を描く。
「あんまり悩みすぎんなよ」
「大丈夫です。心配かけちゃってすみません」
「それくらいで謝るな」
 急に不機嫌になったヒノエに、は動揺した。
「あ、はい、えっと……」
 『すみません』とまた言いそうになって、口ごもる。
 熱を出した時と同じようなやり取りだ。
 そんなを見て、ヒノエがまたため息をつく。
 いたたまれない空気をどうにもできず、はすぐ横の木を見上げた。
 ヒノエも同じように木を仰ぎ見る気配がした。

「似てるな」
 ぽつりとヒノエはそう呟く。
 それだけで、彼がこの木に何を重ねて見たのか分かる。
「そうですね」
 ヒノエが自分と同じ感想を持ったことが嬉しくて、は自然と笑みを浮かべる。
 と同じように、ヒノエもあの木の下での思い出を大切に思ってくれているだろうか。
 いや、きっとヒノエは覚えていない。何しろ十年以上も昔のことだ。
 それでいい。自分だけでも覚えていれば、それで。
 大切な、温かい記憶。
 思い返すたびに丁寧に磨き上げ、大事に大事にしてきた。
 あれからずっと、今も、の支えになっている約束。

「ヒノエさま、私、がんばります」

 は宣言した。
 あまり大きくない木を見上げたまま。
 自分の中で誓いを立てるように。
「無理だけはするなよ」
 なんのことを言っているのか、ヒノエに伝わったのかどうかは分からない。
 それでも、心配してもらえることが嬉しかった。
 彼がそんな人だからこそ、はがんばりたいと思えるのだと、そう気づいた。

 神子を、神を騙すのは確かにつらい。
 恐怖はいまだに心の内にある。
 それでも、の主はヒノエで。ヒノエが大切で、ヒノエの力になりたいと思っている。
 にとってはヒノエが一番。彼以上のものは存在しない。
 その思いが揺らがない限り、の心は折れることはない。
 だから、大丈夫だ。
 心からそう信じることができた。



 少しだけ故郷を思い出させる木の下で。
 胸に灯る大切な思いを、少女は噛みしめた。








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 お久しぶりすぎてヒノエとヒロインの性格を忘れそうになってました。
 ヒロインはヒノエが何よりも最優先なんだ、ということの再確認。
 ヒノエが大切、という芯があるから、多少揺らいでも大丈夫なのです。
(2013/1/22)