二一幕 疑問




 遅れてしまったことは、悪いと思っている。
 仕方がなかった。そう言い訳するつもりもない。

 けれど、これは……どうすればいいのだろうか?

 ヒノエは困っていた。
 とてつもなく、困っていた。
 
「……おい」
 小さく、本当に小さく声をかける。
 ――目の前で縮こまり、眠りこけている少女へ。
 かすかすぎて意味がないと、自分で気づいてため息をついた。
 それでも普段であれば目を覚ますだろうに。そう思ってから眉をひそめる。
 つまり、それほど疲れているのだ。
 疲れさせているのは、まぎれもなく自分で。
「まだ、寝させとくか」
 起こさないように、今度はわざと小さく呟いた。

 何事にも全力で、限度を知らないと言わんばかりにがんばって。
 傷ついて、それでも彼のためにと譲らなくて。
 この小さな体で、確かにヒノエを支えてくれている。
 今くらいは目をつぶってあげよう。

 どうせこの時間、この納屋に来る者などいない。
 そう知っていたから、指定場所にしたのだ。
 頻繁に京邸を抜け出せないヒノエに、子の初刻に報告に来るようにと。
 いつもは皆が寝静まっている時分。
 けれど今日は、譲が眠れないからと明日の飯の仕込みをしていた。
 偶然出くわしてしまい、とっさに灯りが見えたから、と答えたヒノエは、来た道を戻るしかなかった。
 遠回りしてここに来てみれば、すでに少女は寝ていた、と言うことだ。

「けど、よく寝てんなぁ」
 すとんと、少女の横に腰を下ろす。
 それでもすやすやと寝息を立てたまま、起きる様子はなかった。
 は、烏だ。
 若かろうが経験が浅かろうが関係なく、人の気配には敏い。認めるのは癪だが、ヒノエよりも。
 ここまで無防備な姿を簡単に人に見せることはなかった。
 ……ここにいるのが自分だから、なのだろうか。
 なじみのある気配だから、無意識に警戒を解いているのだろうか。
 確かに、ヒノエの前での彼女はいつも無防備すぎるほどだったように思える。
 信頼されている。という事実が心地良かった。
 それと同時に、あまり面白くないと感じる部分もあった。
 なぜかは、分からないけれど。

 ふいに。
 気配が動いた。
 誰かが来たわけではなく、すぐ隣の。
「って、おい」
 膝に倒れてきた当の本人は、ただ気持ち良さそうな笑みを浮かべていて。
 身動きが取れなくなったヒノエは、文字通り固まった。
 さすがに起こすべきだろうか?
 けれども、少女が疲れる原因を作ったという罪悪感もあるので、ためらってしまう。
 別に今さら膝枕ごとき、気にする仲でもないか。
 あきらめ半分にそう判断して、二度目のため息をこぼす。
 寝顔を見るのは、が熱を出したとき以来。
 その後の恐縮ぶりを思い出し、今回もきっとそうなるのだろうと苦笑する。
 一応は、あわてるのだ。
 意味合いは、だいぶ違うけれど。
 男女間だからではなく、主従関係だからで。
 すみません。と謝ってほしくはないのに口にする。
 子どもの頃は当たり前にしていたことが、だんだんと難しくなっていく。
 自身が、難しくしていってしまう。
 彼女が成人して烏となった、あの時から。
 普段は見えない、分かりにくく、けれどしっかりと引かれた、境界線。
 自分が熊野別当である以上、それが消えることはないのだろうか。

「ヒノ、エ……さま」
 唐突に名を呼ばれ、起きたのかと少女を見る。
 が、いまだに瞼は閉じられたままだった。
 夢の中にまでヒノエが存在しているのだろうか。
 自然と表情は優しいものになる。
 年より幼く見られがちなの寝顔はさらにあどけなく、本当に子どものようだ。
 けれどいつからか女性らしい柔らかみを持ってきていることも、ヒノエは知っている。

 信頼されているのは、嬉しい。
 しかしこれは、少し安心しすぎではないだろうか。
 幼い頃から共にいたせいで、彼女は分かっていないのだろうけれど。
 ヒノエは男で、は女。
 動かしようのない事実がある。

 の髪にそっと触れる。
 黒茶のそれは、明かり取りの小さな窓から月明かりが差し込むのみの今では、烏玉のようで。
 お世辞にも艶やかとは言えないのに、綺麗だと思う。
 女にしては短く、動きやすいようにと上で括られただけの髪。
 化粧は必要に迫られない限りはしないし、必要になるような機会もほとんどない。
 烏として、諜報活動をしたことはないのだから、余計に。
 いつも、町の様子を知るために、町に溶け込みやすい姿でいた。
 質素な、地味といってもいいくらいの服装に身を包んで、元気に働いて。
 女らしい楽しみなんて、きっと望んでいない。
 ヒノエも女として扱ったことはなかった。
 部下として、友として。気の許せる幼なじみとして。
 だから、もヒノエを意識することがないのだろう。

「お前にとってオレは、主なんだろうな」
 本来は中立の立場である、烏。
 に主だと認められている今は、幸せなことだろう。
 そう、思うべきなのだろう。
 他にどういう関係を持ちたいと言うのだろうか。
 信頼できる部下で、充分ではないか。
 それに、どこかで納得していない自分がいることに、最近になって気づいた。
 が熊野ではない場所に、京邸に、なじんでいって。
 自分ではない者と、笑い合っているのを見かけるたびに。
 言葉にならない痛みが、胸に走る。
 いつも隣にいた少女がどこかに行ってしまうようで、どうしようもなく不安になる。
 ずっと一緒だと約束をしたのも、縛りつけたかったからかもしれない。
 こんなことなら、無理を言ってでも熊野に置いてくれば良かった。
 そんな風にまで考えてしまう自分がいる。
 神子も龍神も八葉も、悪い者はいないと分かっているのに。
 あまり打ち解けてほしくないと、接触させた本人が思っている。
 とんだ矛盾だった。
 馬鹿らしい、考えるだけ無駄な話だった。

「……分っかんねえな」
 どうしてそう、思ってしまうのか。
 特にと気が合うらしい譲に、つらく当たってしまうことがある理由。
 仲の良さだけであれば望美の方が上だろうに。
 子どもじみた独占欲かもしれない。
 そうではない、かもしれない。
 自分の感情が一番、理解できなかった。

 ヒノエは納屋の小さな窓から見える空を仰いだ。
 答えが出る日は来るのだろうか。
 答えを出すことを、己は望んでいるのだろうか。
 それすら、今のヒノエには分からなかった。



 いつかは知るだろう、感情の名前。
 大きな幸せと苦しみを伴うその種は、確実に成長していっていた。








前へ / 目次 / 次へ


 ヒノエ視点。まだ自覚がないので書いててもだもだします(笑)
 敵陣(?)でのんきに寝てしまう烏というのもどうかと思いますが、そこはまだ未熟者ということで。
 鳴や烏仲間に知られたら、きっと大目玉を食らうことに……。
(2013/2/26)