四幕 呼称




 二人は京に向けて山道を歩く。
 別当に取られた荷物は、何とか言って半分は持たせてもらえた。
 軽くなった荷物を手に持ち直し、は小走りで彼の後をついていく。

「別当さま、どうして京に行くんですか?」
 は疑問に思っていたことを訊く。
 冬頃に鳴を京に送り出して、季節は今、春になろうとしていた。
 熊野の地は、今秋の不作の爪痕が完全に消えうせたとは言えない。
 徐々に好転してはいるものの、未だ予断を許さない状態だったはず。
 そのようなときに別当自らが京に赴くとは、いかがなものなのだろう。
 鳴から重要な報せでも届いたのだろうか?
「ついたら説明する。
 こんなとこじゃ誰が聞いてっか分かんねえだろ」
 なんでもないことのようにそう言って、辺りに視線を走らせる。
 彼は熊野別当だ。
 いついかなるときも、注意をおこたることをしなかった。
「まあそうですね。
 つまり機密事項なんですね、別当さま?」
 確認するように問いかけると、

「ヒノエって呼べ」
 唐突にそう言われた。

「へ?
 別当さ……」
「ヒノエだ」
「無理ですよ!」
 突然の事態についていけず、は叫ぶ。
「ヒ」
「ひ?」
 短い音を口にする彼に、つい聞き返す。
「ノ」
「の?」
「エ」
「え?」
「続けて言ってみろ」
「ひ、ひひ……」
 続けて『ヒノエ』と言おうと頑張ってはみるが、どうしても慣れない名につっかえてしまう。 
 彼は町に下りるとき、決まって『ヒノエ』と名乗っていた。
 も良く連れて行ってもらっていたが、そのときは名を呼ばないように、としか言われなかった。
 彼と会うのはもっぱら熊野本宮の周辺で、の家族もそこに家をもらっていた。
 幼きときは『若さま』、後を継いでからは『別当さま』と、本名も偽名も呼んだことなどまったくない。
 確かに『別当』と呼ぶのは駄目なのだろうけど……と、は困り果てた。
「言えないなら京には行けないな」
 にとって酷なことを平然と言う。
「それは嫌です!」
 声を大にして言う。
 京に行けると決まったときは、ただ嬉しかった。
 足手まといになるかもしれないと気づいて、つらかったけれど、『ついてこい』という言葉に安心できた。
 行きたい。彼と共に京の都に。
 それはにとって重要なことだった。
「なら言ってみろ」
「ひひ、ひ、ヒノエさま!」
 何とか言えた、とは息を吐き出す。
 『別当さま』と呼ぶことの危険性は、京へ行くと決まったときから感じていたことだった。
 最初は勢いで無理だと言ってしまったが、今では重要なことだと分かっている。
 だから、偽名を呼べたことに、迷惑をかけなくてすむことに安堵した。
「……叫ぶ必要はないし、『さま』もいらない」
「これ以上は勘弁してくださいよ〜」
 彼は主なのだ。
 敬称をつけずに呼ぶなど、自分には到底できそうにない。
 それを見て取ったのか、少年は特に気にする様子もなく歩き出す。
「ま、いいか。
 行くぞ、
 彼は少女のことをあまり呼ばれることのない烏名で呼ぶ。
 別当としてのけじめなのか、他の訳があるのかは分からなかった。
「あ、待ってくださいヒノエさま!」
 その後をはあわてて追いかける。

 変わった呼び名に、少しの違和感を感じながら。


 ******


「ヒノエさま、ヒノエさま〜。
 ヒノヒノヒーヒノヒノエさま♪」
 今日も今日とては元気に京へ行く。
「……人の名前で遊ぶな」
 対するヒノエは不機嫌丸出しな顔をする。
 底冷えするような声でそう言うと、の頭をぐしゃりとかき回す。
「そんな顔してたら幸せが逃げちゃいますよ〜、ヒノエさま!」
「それくらいで逃げるような幸せならいらねえよ」
 このような言い合いですら嬉しい。
 乱れた髪を整えながら、は幸せをかみしめる。
「だって、変な感じがするんです。
 ヒノエさま、って」
 失礼かとも考えたが、感じたままを言葉にする。
「仕方ないとは思うんですけど、やっぱり変です」
 『熊野別当』の名は知れ渡りすぎている。
 だから偽名を呼ぶことに、さして疑問はない。
 けれど、違和感は消えない。
 まるで彼が二人存在しているような感覚がする。

「オレはヒノエだ」
 苛立たしげに言い放つ。
「す、すみません!!」
 怒らせてしまったようだと、すぐに謝る。
 ヒノエの機嫌を損ねたいわけではないのに、自分はいつも言わなくていいことを言ってしまうらしい。
 呼称なんて、少し気になっただけ。
 ただ彼と話していたかったのだ。

「……悪かった」
 ぽつりと、そう呟く。
 少女の頭に手が乗せられる。
 が主を仰ぎ見ると、ヒノエは困ったような顔をしていた。
「その気がないことくらい分かってる。
 お前にあたっても仕方がねえな」
 その言葉に目を見開く。
 謝られるとは思っていなかった。
 悪いのは完全に自分だったはず。
 『ヒノエ』である彼を傷つけてしまった。
 なのに、どうしてヒノエが謝るのだろう?
「ヒノエさまが謝ることじゃないです!
 わ、私、いけないこと言っちゃったから、ヒノエさまが怒るのは当然です!」
 必死になって彼の弁護をする。
 ヒノエは、悪くない。
「だから、だから……」
「もういい」
 なおも言いつのろうとするの言葉をさえぎる声。
「気にするな。
 ただ、『別当』とは絶対に呼ぶなよ?」
 明るく言う彼の顔には、先程の怒りも困惑も見えない。
 そのことに、はやっと安心する。
「はい!」
 少女は大きく頷いた。



 変わった呼び名、彼女の気付かない隠れた意味。
 彼が笑ってさえいればそれでいいと、少女もまた笑顔を返す。








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 いきなり『ヒノエさま』はまずいかな、と思ってこの話を書きました。
 ヒロインのキャラがちょっと変わりましたね(笑)
 問題あり、かもしれません。
(2006/10/7)