七幕 怨霊




 静かな夜に、異変は起こった。
 異様な気には目を覚ます。
 烏たるもの、常に周りに気をはらい、小さな変化も見つけられる洞察力が必要だった。
 体を起こすと、かすかな腐気に身震いする。
 ヒノエも気づいたようで、衝立の向こうで動く気配がした。

「怨霊だ」

 小さく低い声だった。
 その言葉だけで大事なのは分かった。
 怨霊……この世に未練を残して死んでいった者の嘆きが生んだ、悲しい存在。
「京に怨霊が出るって、本当だったんですね」
 ヒノエが頷く。
 ここ数日で得た情報にあった、怨霊の話。
 この状態では、認めざるをえなかった。
 空気がよどんでいる。
 音はしないのに気配が強まる。……不思議な、いや異様な感じだ。
 それこそが生きてはいないことの証明。理から外れたものの証。怨霊というもの。
 は枕元の荷物から小刀を取り出す。
 少女の得物だった。
 剣術はあまり得意ではなかったが、烏としてそれなりに扱える。
 の体に合わせた長さの手になじむ刀を、いつでも鞘から抜けるようにかまえる。
 緊張で指先が震えるのを必死にこらえる。
 絶対に、ヒノエだけは守らなくてはならない。
 たとえ自分が死ぬことになっても、ヒノエが生きていればそれでいい。
 彼にはそれだけの価値があるのだから。
 あたりに張り詰めた空気が流れる。

 けれどそれは、あっけなく終わりを告げる。
 唐突に濁ったような気がかすむ。
 一瞬きの後には、まるで元からいなかったかのように気配が消えていた。

「はあ……」
 は詰めていた息を吐き出す。
 体中の空気を出してしまったのではないかというほど吐息をつくと、今度は思いきり吸い込む。
 落ち着かなくては、落ち着かなくては。
 最後に大きく伸びをして、はにこっと笑う。
「良かったですねぇ、怨霊さんと戦わなくてすんで。
 私、冷や汗かいちゃいましたよ!」
「ああ、そうだな」
 ヒノエの適当な相づちにもはめげない。
「見回り、だったんでしょうか?」
 なんのために怨霊は姿を現したのか。
 思ったことを素直に口にすると、
「あいつらに、んな頭があると思うか?」
「ない……です、よね」
 逆に問い返され、言葉に詰まる。
 けれど、本当に良かった、とは持っていた刀をしまいながら思う。
 ヒノエの害にならなくて。
 自分一人でなんとかなるか、分からなかったから。
 そう思うと、安堵で息がもれる。


 ふとヒノエを見ると、彼は何か考えているようだった。
 そのけわしい表情に急に不安になる。
「べっ、ヒノエさま?」
 声をかけると、目だけをこちらに向ける。
「京でさえこの状況なら、熊野も……」
 ひどく疲れているような、焦っているような声音。
 そこまで言われれば、でもヒノエの考えていることが分かった。
 熊野も近々、京みたく怨霊が出るようになるだろう、ということ。
 あの綺麗な気に優しい潮騒、そこにさまよう怨霊の姿。
 想像しただけでぞっとする。
「あそこには熊野三山がある。
 熊野神の加護があるから平気だと……思ってたが。
 四神の守護のある京がこれじゃあな」
 そう言ったきり、ヒノエは口をつぐんだ。
 は主の顔をじっと見つめる。
 ただただ、ヒノエの気持ちが痛かった。
 つらいだろう。苦しいだろう。
 自らが治める地がこれから荒れるというのに、手をこまねいて見ていることしかできない。
 彼の思いはのそれの何倍もの重みがあるはずだ。

「龍神の神子さまのお力を借りるとか、できたらいいんですけどね」
 突如姿を現したという白龍の神子。
 これまで幾度も姿を確認している。
 宇治川の戦で源氏に拾われ、その縁で梶原邸に世話になっているところまでは調べられた。
 梶原家の長女が黒龍の神子であることからも、つながりが見える。
 しかし、出自に関しては一切分かっておらず、未だ謎の多い女性だ。
 『白龍の神子』の真偽は別としても、何かしらの力を持っているのは確実。
 それを熊野のために使ってくれるかというと……まず無理な話だ。
 けれど、ヒノエの返答は予想外のものだった。

「お前にしちゃ、悪くない発想だな」
 口のはしを上げて、無理矢理笑みを作っているように見えた。
 不敵な、というにはどこか弱々しい表情で、皮肉を言う。
「え!! 可能なんですか!?」
 驚いたは衝立を越えてヒノエに近寄る。
「考えてもみろ。
 怨霊が存在しているとどうなる?」
 を自力で答えにたどり着かせるために、問いかけの形をとる。
 主は配下を教え導くもの。彼は立派なの主だ。
 今更ながら、少女は怨霊が『何なのか』を思い出す。
 怨霊――悲しみや苦しみ、負の感情の塊。
 負の感情とは、すなわち……陰の気。
「この世への未練とか、嘆きから怨霊さんは生まれるわけですよね。
 だったら、陰の気だけがたまっちゃって、陰陽の調和が乱れちゃう……ですか?」
 頭の中を整理しながら、一句一句確かめるように口にする。
「普通はそうだな。
 今は平家が私欲のために怨霊を生んでいる」
 前々から気にはしていたことを、いとも簡単に言ってのける。
「結局のところ原理は同じだ。
 それにより、陰陽の気が乱れるのは変わらない。
 ……ここまではいいな?」
 言っていることは理解できたので、は頷く。
 死した者の嘆きにより、怨霊が生まれる。
 あるいは、負の感情を意図的に増幅させ、怨霊を作り出す。
 怨霊のまとう陰の気によって京の――世界の陰陽の調和が保たれなくなる。
 と、いうところだろう。

「で、龍神の神子は何をする人物だ?」
「へ!? ……伝説では、京を救ってますよね。
 けど、現実にいる人の場合、何をするんでしょう?」
 いきなり聞かれても、理想と現実の間で悩んでしまう。
 神子と呼ばれていても元はただの人間のはず。
 龍に選ばれ力を授かった、か弱き女性にどれほどのことができるのだろう?
「龍神の神子様なら、世界を救ってくださるだろうよ」
 どこか投げやりにヒノエは言った。
 彼の様子に少女は首をかしげる。
 なぜ、そんなにも攻撃的なのだろう?
「陰陽の気の乱れが広がってきている今、何も行動しなければ噂はただの噂だったってことになる。
 本物だった場合は、どうにかするしかないだろ?」
 ニヤリと、今度はきちんと不敵な笑みを浮かべる。
 その『行動』を利用しようと考えていることが、見て取れた。

「つまり京の、というか世界の気を整えれば、自然と熊野も穏やかな気を取り戻す。
 だから本当の神子さまであるなら、熊野も結果的には助けてもらえる。ってことですね?」
 ようやく答えを探し当てたが、人差し指を立てながら意気揚々に言うと、
「そういうことだ。やっと理解したか」
 と頭を軽く小突かれる。
 ヒノエはいつでも優しい。
 けして配下を見捨てることなく、答えを見つけられるまで付き合ってくれる。
 ヒノエはいつでも温かい。
 ほんの小さな言動一つで、こんなにも嬉しい気持ちにさせてくれる。
 は彼の烏であることを幸せに感じた。


「まあ、『白龍の神子』が偽りの可能性も考えて、だ。
 なるべく早く熊野に戻るようにするぞ。分かったな」
「……へ? って、え?
 あ、はい!」
 思考にふけっていたところに急に話をふられ、は混乱しながら返事をする。
「大丈夫か?」
 怪訝そうに聞いてくる。
「大丈夫です!」
 心配をかけたくないは、元気に答える。
 優しい主の気をわずらわせたくなかった。
「そうか。
 ……鳴を、先に帰すか」
「鳴さんをですか?」
 小さな呟きを聞き逃すではなかった。
 鳴を帰すというのは、熊野の崩落を少しでも遅らすためには必要なこと。
 それをヒノエは京の調査や龍神の神子の噂より優先させるという。
「ああ。明日、鳴に伝えにいこう」
「はい!」
 ヒノエの決めたことなら、は何も言わない。
 彼の選択が間違うはずないのだから。



 予定は、緊急な事態が起きれば簡単に狂ってしまう。
 そしてそれは同時に、大きな運命へと巻き込まれる序章でもあったのだ。








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 話が動くような予感をさせてみました。
 今現在、熊野に怨霊が出たことはないという、ちょっとおかしな設定です。
 なぜかというと、そんな大変なときに別当が熊野を離れる理由が分からなかったから。
 いつも考えなしな、みどりでした。
(2006/10/31)